第10話 ルナドートの主神

 『幻の世界』だと? そんなはずはないとミラノは思う。


 そう言った襤褸ぼろを纏った老人の姿は、いま消えつつあった。

 徐々に薄っすらとぼんやりとした青い光の塊のようになっていっている。

 この老人、いやこの老人を操る者の力が弱まってきているのだろうか。


「『幻』でございます」


 言い残して、その青い光の塊は消えようとしている。



***



 ノリスが恍惚とした顔をして起き上がった。


「なんということでしょうか。

 わたくしは、わたくしは、

 ああ、それにしても、これがシエルクーン王家の魔導の力、

 わたくしの体の隅々まで行き渡る心地よい魔導の力でございます」


 ノリスはミラノを見る。


「わたくしめには死ぬほどの喜びはございませぬ。

 わたくしめは、王陛下の杖に打たれ死にとうございました」


 ノリスのその言葉を、狂信的と思うかもしれない。

 確かに狂信的であろう。

 しかし、ミラノとノリスの間にはこれをべつだん『狂信的』と思う気持ちはない。

 ミラノにとっても、ノリスにとってもごく当たり前の心得なのである。

 この王国の従者にとって、主に殺されることは本望であった。


「それをこの汚らしい少年に救われるなどとは、

 なんとおぞましきこと!

 わたくしめの王陛下に打たれるあの恍惚とした時間を、

 返して欲しいくらいでございます」


 宦官・ノリスは、マルコ・デル・デソートを本当に汚いものを見るような目で見た。


「は! なんでそんな目で見るんだ!

 助けてやったというのによお!」

「わたくしがいつ助けて欲しいと言いましたか?」

「まあな! 助ける必要なんか無かったな!」


 これはその通りであり、この貧民窟の住人が貴族とその従者の揉め事などに通常は関わらない。

 彼らは普段からそういった上流階級の者から差別を受けているのであるのだから。


「ノリス、もうよせ、お前を打ち付けたのも、お前を治癒したのも僕だ。

 その者は関係ない」

「そうでございました。

 わたくしめは、シエルクーン王家の魔導の力を体の隅々で感じました。

 わたくしめの体細胞の深奥インナー・セルが喜びに満ちてございます」


 そこへ現れたのは少女の姿をしたエスタ・ノヴァ・ルナドートであった。


「魔導の発生が強まったと思ったら、これは何事でしょう」


 主神・エスタは言った。


「何事とは? エスタ様」

「おだまりなさい。ミラノ坊や」


 ミラノは無表情でエスタを見た。


「エスタ様が現れる程のことは何も起きておりませんよ」

「そうですか? でもそれはミラノ坊やが判断することではありませんよ、

 それに私はミラノ坊やに会いに来たわけでもありませんし」

「エスタ様は、シエルクーン王家を馬鹿にしておられる」


 少年王は朗らかに笑い、


「では、この者に会いに来たのですね?」


 マルコ・デル・デソートを見た。

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