勝利の代償に

 世界樹いただくその市場

 はるか彼方にはドラゴン治める国がある

 ここに土竜の青年と飛竜の娘が災禍を招く

 何度も命を取りこぼしかけた二人

翻弄されし命が、運命を別つとすれば


 ギイィと軋む扉の音。わずかに遅れてリンと鈴が鳴る。さらに、一歩、二歩と床がミシと悲鳴を上げ始めた。

「おい、字ぃ読めねぇのか。もぅ、店じまいだ。明日にしろぃ」

 投げやり気味な言葉は、明かりの消えた中から発せられる。だが足音は引き返すことなく進み、扉を閉じた。聞こえねぇのか、とガラガラ声で息巻きながら床を踏み抜かん勢いで奥から姿を現したのは、筋肉質な体躯に濃い髭をたくわえた人間の大男。

 彼の持っていた明かりが侵入者を照らした。鋭い睨みを利かせていた彼の視線の先、備え付けのカウンターを挟み向かい合う形となった来訪者は、下半身のみを照らされながらぼんやりと佇むばかりである。うん、といぶかしむ男は明かりを持ち上げ、その姿をよくよく観察する。

 目を丸くして、かと思えば顔を綻ばせた男は空気を大きく吸い込む。

「……どこ行ってたんだ、ギルよぅ」

 夜闇に紛れていた、逞しくも精力のないその長身。皮の鎧につけ、その上から外套を羽織り、剣を背負う立脚類。輝きのない茶色の鱗に、虚ろを見つめる空色の目。

「泊めてくれ。今日だけでいい」

 すっかり怒りのほどけた男を見て、彼はわずかに緊張を解き、それだけを呟いた。

「生憎、満室だ。来い。倉庫代わりの部屋、使わせてやる」

 カウンターの外に移動した男はさっさとしろ、と客の出入り口とは真逆の位置にあった扉を開き顎で示す。土竜もふらつきながら後を追い、奥へ。

「明日、片付けてやっから、今日は我慢しろぃ」

 その向こうには廊下が続いており、さらに最奥の扉を指示した。ゆらゆらと姿を消したことを確認して、大男はカウンターの奥へと大股に歩いて戻った。


 男は陽の昇り始める少し前から起床し、てきぱきと店内を掃除していた。

 カウンター、椅子と水拭きし、床を掃く。最後に全体を乾拭きして一息つく。その頃には客室から物音が聞こえ始めていた。一通りの作業を終えて、次に男はカウンターの奥に引っ込み、厨房に立つ。

 そう試行を繰り返すこともなく火を起こすことに成功する。その上に置かれていた金網に発酵食品を乗せ、火に舐めさせて炙る。次に、フライパンにごく少量の油を入れて火にかける。パチパチと音を立て始めたら卵を一つ投下する。白身だけが固まったところで脇に積み上げていた皿を持ち上げ、二つの食材を手際よく乗せていく。

 全部で五皿。少しの付け合わせが乗せられ、湯気が消えてしまう前にそれらはカウンターへと並べられた。そこにはすでに三人が各々の時間を過ごしながら席についていた。立脚類と四脚類の獣が一人ずつ、そして人間が一人。

「待たせたな。こんな安宿でぇ、大したもんは出せねぇけどよ」

 一皿は空席に、もう一つは自身の前に。向かい合う形で四人の食事が始まった。口数少なく始まった食事は、増えることもなくあっさりと終わってしまう。

 すると男を除く者たちは外へと出ていった。挨拶もなく見送った彼はふと客室の方向を見やる。耳障りな軋む音と共に食事スペースを覗き込むのは、立脚類の竜だ。すっかり冷めてしまった一皿を示しながら、よぅ眠れたか、と男は彼を睨みつける。

「いや……でも、ありがとう、ヘッズの……さん」

 荷物を下ろした軽装で、そう答えながら歩き出し今日はまだ誰も座っていない席につく。まだどこか疲れている様子に、一笑いする男。

「傭兵で食ぅとか言いながら、そんな様子で戻ってきてよぅ」

 空の皿を重ねながら、丸くなっちまって、と口は笑いながらも目尻を下げるヘッズ。

「好きなだけ、この町で骨ぇ休めろ。好きな時に、おれに話しゃいいからよぅ」

 ありがとう。おぅ。

 ギルは発酵食品に焼いた卵を乗せてゆっくりとかぶりつく。ヘッズは立ち上がると食器を持って厨房へと引っ込んだ。皿を洗い、さっと布で拭いて乾かす。表に戻れば、動きをぴたりと止めた青年の姿と、口にはしたものの戻したのだろうものが乗る皿が目に入る。特に何を言うでもなくそれを引っ込め、同様に片付ける。

 片目を抑え、宙をにらみながらうつむくばかりの青年の頭を、武骨な手がぐわしとひと撫でし、客室へ移動する。ガチャリと一番奥を開けば埃の臭いと荷物の山。辛うじて寝転がれる空間が足元にあり、ため息をつきながらヘッズは髪を掻き上げる。

「あー……どぅにも……どこに置いたもんかな」

 まずは手を伸ばせば届く箱を抱え、廊下に運び出す。壮年の長い一日が始まった。


 手ごろな荷物を廊下に出し終え、それらの一つを抱えて表にふらりふらりと運びだしたヘッズは、いまだカウンターに座る青年に声をかける。

「おぃ、ギルよぅ。フィレアとバーンのやつが来たら、おっとと、どうする? 満室だっつって、よそにいかせるか?」

 声をかけながら何もないところでつまづくが、ギルは応じない。

カウンターに両手を置き、足と尻尾をぶらつかせて座る。ぼんやりと壁にかかる絵を見つめて、やはり上の空。

「そういやよ、あの二人、付き合ってんだってなぁ? 弟子のおまえから見て、うまくいくと思うか?」

 やっとの思いで開き放しの入口から外へと出、掛け声とともに、ドスンと荷物を下ろした。腰に手をそえながら戻ってきた壮年を、振り返ったギルが眉尻を下げて見つめていた。

「あ、悪い。ぼっとしてたわ」

 昨晩と変わらず、疲労の浮かぶまなざし。

ズカズカと大股に近づいたヘッズは彼の隣に、大儀そうに腰かける。膝に肘を乗せ、前かがみになりながらくすんだ空色を見上げる。

「おまえがいなくなってからよぅ」

 顔に刻まれた皺がより一層深くなり、汚れ、乱れた歯がのぞく。

「いい宝石が出なくなるわ、装飾具の流通が止まるわ、不作続きで賊は増えるわ、大変だったんだぞ? 土竜とか市場の商人に応援融通してもらって、どうにかしのいだけどよ」

 そうなのか。青年は強面の中にある、つぶらで穏やかな瞳から目を逸らす。いや。軽く首を横に振る。

「あー、責めてるわけじゃ、ねぇ。その、な、おまえに話すようなことがねぇだけだよ」

 悪いな、と笑みは続く。ああ、と微笑み返す。

 ゆっくりと体勢を起こしたかと思うと、青年の背が剛腕に勢いよく叩かれる。バシンという音と共にギルの小さいとは言えない身体が、浮かんで勢いよく飛び出す。そのまま両足、両手と続けざまに床につき、軽く歯を食いしばる。

「ほら、手伝え。一人じゃ夜までかかっちまう」

 青年が体を起こして向き直る頃には、ヘッズはすでに客室の入口だ。さっさとしろよ、わーったよ。張りを得た言葉に、家屋中に響くほどの大笑いが返る。


 荷物の運び出しと、その分別。そこからさらに不要なものの処分、といった一仕事を終えた二人は再び室内に戻り、ヘッズが用意した軽食を前に並んでいた。とはいっても今朝以上に簡単な、荷物から見つかった乾燥保存食と水である。

 もそもそと食べていたヘッズはさもまずそうに眉を寄せながら水を一口。

「おい、そんな急ぐなぃ。水飲め。干からびる」

 朝食よりも数段下の食事にも関わらず、彼が一つ分食べる間に三つは口にしているうえに、勢いは止まりそうもない。加えて、夢中でかぶりつくその姿は、

「焦るなおぃ。もっとゆっくりしろぃ」

 まさしく、飢えを満たそうとする姿である。

 積まれた保存食のいくつかを彼の前から奪ったヘッズは、しかしそんなことに目もくれない彼の横顔を見つめる。意地汚い音を立てながら咀嚼する姿を、遠くから眺めているように。

 細い腕、わずかに浮き出たあばらに、見え隠れする牙はひどく汚れている。

 だが大男は手にした昼食をすべて口に放り込み、立ち上がる。ギルのカップを奪い取りながらカウンター奥へ消えると、すぐに水のなみなみ入ったそれを返す。礼もそこそこに、ギルは全てを平らげた。

「……そんな腹、減ってたのか? なら、なんか食いたいもん、あるか?」

 満足げに腹をさする竜の青年は、深い笑みと共に光を取り戻した視線を向けた。


 ヘッズお手製の夕飯もあっという間に空にした宿泊客たちは、店主にとてもおいしかった、と礼を言って客室へと戻っていった。主人と三人を除いて。

 同じ姿勢で席につく彼らは全員、土竜だ。一人は昨日訪れた青年のギル。他二人は黒い肌着を上下に身に着けた男と女。長さの異なる尻尾を後ろに垂らし、雑談に興じながら、グラスに注がれる酒を少しずつ口にしていた。

 昼食後、夕食の買い出しに出かけたヘッズに取り残されたギルはぼんやりとしていたが、そこに彼らが訪ねてきたのである。お互いに目を丸くした三人は再会を喜び、それからずるずると話を続け、今に至る。

「にしても突然、傭兵になるとか言い出して……ヘッズから聞いて耳を肝が冷えたもんさ」

 頬を紅潮させている女の土竜の言葉に、同意するもう一方。

「フィレアの言うとおりだぞ、ヴルムの青年。実はと言えば、長からおまえのことは監視しておくように、言われていたんだぞ?」

 あんな説教はこりごりだ。ぐいとグラスいっぱいの酒を飲むペースは落ちない。

「……師匠たちにも、迷惑かけてたのか」

 ギルはカウンターに両肘をつき、グラスに浮かぶ氷を冷たく眺めている。

「おぅ、ギル。あー、ガキは、大人に迷惑かけるもんだ。恥じることでも、なんでもねぇよ」

 カウンターの裏側で落としてしまった氷を拾い上げながら口にしたヘッズは、結露のつきはじめた氷入りのグラスにトクトクと水を注ぎ始める。氷はわずかに縮み、ぷかぷかと涼し気に浮かび始める。

 バーンは怒ってるのかい、と呂律の怪しいフィレアが隣の彼の肩に腕をまわす。

「私ぁ、怒ってなんからね、ギル。それにぃあんたの親も、だぁれも、気にしちゃいなかったよ」

 にぃと笑う彼女はもう片腕もまわして、同僚に抱きつくような体勢となる。

「あんたは、こっちに来てよかったんだよ。ほぁ、あんたも怒ってなかったろぅ? 嘘つくのはやめなってぇ」

 果物の香り混ざる吐息がバーンに襲い掛かる。彼はぐるぐると、言葉になっていない言葉で喉を鳴らしながら、彼女の首の付け根に手を伸ばしてくすぐり始める。

「すっかりできあがっちまったな……ギル、潰れる前に寝ちまえよ」

 仲睦まじい二人の訴えかけるような視線を無視して、ヘッズは酒瓶を持って奥へとひっこむ。戻ってきたかと思えば、さっさとこれ飲んで寝ろ、もう一つ、水入りのグラスを差しだす。

「折角ギルが飲めるようになったのに取り上げるのか! あんまりだぞヘッズ!」

 がばりと立ち上がった逞しい土竜に、ぶらさがるような体勢となってフィレアもそうだそうだぁ、と抗議の視線と共に緩い笑みを向ける。

「ぁんだ、文句あんなら、もっと自己管理しろぃ」

 盛り上がってくる三人の口論をよそに、ギルは水を一気に飲み干す。それから肺が空になるほどの息をついてから、彼らを置いてふらふらとした足取りでこの場を後にした。

客室へと迷わず進み、用意されていた簡易ベッドに倒れこんだ。

埃を巻き上げた暗い室内で、一度、二度と深呼吸をする。じっと薄汚れた壁を静かに見つめていた眼差しは、ゆっくりと閉じていった。


 虫の鳴く音が聞こえる、しんと静まり返った夜半の町。中央から少し離れた小さな酒場兼宿屋から、この世のものとは思えぬ叫びが木霊した。突然のそれは何の前触れもなく、耳を裂き、天まで轟き、しかし一瞬で消え失せた。

 また静寂を取り戻した町にざわめきが起こるが、数人が外へと繰り出すだけだ。一人、二人と合流していった彼らは装備で身を固め、明かりで夜を照らしながら宿へと向かう。そして互いを見合い、戦闘一人がゴンゴンと扉を叩いた。

 代表が主人の名を呼ぶ。しかし返事はなく、訝しむばかりだ。

 再び顔を見合わせる彼ら。叩いた者は武器を抜き、扉のノブを指さす。隣にいた者が頷き扉を開けば、するりと一人が潜り込んだ。続けて二人、三人と。

 真っ暗な室内は、特に何もなかった。

入口すぐにカウンターと椅子があり、その奥には台所がある。そちらに一人を向かわせ、一人目は客室へとつながる扉が開いており、わずかに明かりが漏れていることに気が付いた。

 慎重に歩く男は扉をくぐり、四つの扉のある廊下に出る。最奥の客室だけが開いている。はぁ、はぁとゆっくりとした深呼吸が、廊下に響いている。眉を寄せ一歩、男が踏み込むと床が軋む。すると、だれだぁ、という特徴的な男の声が奥からの問いかけに、名乗った男は武器をしまってこっちに来るように言う。

 明かりに照らされていたのは、ベッドに腰かけるここの主と、寝ていたらしい震える土竜。主人の太い腕にすがりつきながら、じっとうつむいている。

「悪ぃ、起こしたな。大丈夫だ。こいつが悪い夢から、覚めただけだよぅ」

 大きな笑みを浮かべる彼に、頼みますよ、と彼は部屋から出て、他の者を引き連れて外へと出ていった。また夜を取り戻した宿の、他の客室の者たちは深く眠っているらしく、目覚めた様子はない。

 虫のささやきを聴きながら、ヘッズは口を開く。

「ギルよぅ……傭兵やってみて、どうだった」

 穏やかな言葉と共に、もう片方の手で平たい彼の眉間から後頭部にかけて撫でた。

「石磨きをしたいって飛び出して、あちこち旅したんだろぅ? どんなやつと会った? どんな景色を見たんだ」

 青年の爪が、太い腕に食い込んだ。

「……フィレアとバーンがお前を連れてきたとき、なんで俺にって、なぁ」

 皮膚を破り、血がにじむ。

「妻も子供もいなくなって、おまえがやってきた」

 笑ったままのヘッズは動じない。

「料理も接待もできねぇ、とんでもないやつがきたと思ったが、曲がりなりにも、お前は俺の二人目の子供だ。そんだけは、忘れるなよぅ」

 布団に赤いシミができ、じわりと広がる。いまだ震える体で、青年はさらに力を込めながら、声帯を動かそうと口を開く。

「……戦争……巻き込まれた」

 低く短い返事が、闇に吸い込まれて消えた。嗚咽を繰り返そうとも、主人はただ穏やかな表情で黙っている。

「連れが、いた。巻き込まれたのも、そいつの、せいで……」

 上着がずれ、露わになる右肩には生きているのも不思議な古傷がある。肩を真上から両断しているそれは、胸の方まで続いている。

「……好きだった。旅の、途中で、あったやつで……」

 おぅ。ぴくりと動いた太腕は、なおも掴まれたままだ。同時に大きく空気を吸ったギル。吐いて、もう一度吸う。

「……殺された……んだ。目の前……何も、できなくて……」

 震える。瞳、瞼、喉が、振動し、言葉が形を失う。それでもなお、続けようと、彼は繰り返す。その度に溢れる雫はただ落ちるばかり。黙り続けていたヘッズは大きな子供に腕を回し、軽く抱きしめる。

「おう、おう。もういい。ギルよぅ、頑張ったな。だいじょぶだ。怖かったなぁ」

 堰を切って、あふれ出す。まだまだ暗い夜の中、繰り返される嗚咽を咎める者は誰もいなかった。大きな子供を受け止めても、その体躯にはまだあまりある。


 冷たく、ぴくりとも動かないものがある。

 ようやく終わった戦いの喜びを分かち合えるやつらは、もういない。

 裂かれた腹の中からのぞく、灰白色の、丸かっただろうもの。

 嘘だ。これはただの悪夢で……違う。

 俺のせいで、シェーシャは死んだんだ。

 俺のせいで。俺の、せいで。

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