第10話 雨降るバス停

 遥か数十メートル先、青色の鮮やかなバスがバス停から離れていく様子を、後輩と共に走りながら見送っていった。どんなに頑張ってもあのバスに追い付けるとは思っていなかったけれど、走る足を止めるという選択肢はなかった。何よりもまずは、屋根のあるバス停の下に入らなければいけない。

 予報外れの上、買い出しに行っていたわずかな間に雨が降り出すとは思っていなかったため、買い出しに出ていく際に傘を持ってきておらず、後輩と二人して完全な濡れ鼠の状態になっていた。


 バスが行ってしまって数十秒後、ようやくバス停に着き、屋根に守られてまだ濡れていない地面にビニール袋を載せて一息ついた。タッチの差……とはいかなくても、目の前でバスが行ってしまうのは中々に堪えるものがある。


 バス停の時刻表を確認すると、次のバスがくるのは約十分後らしい。この辺りは人が多く交通網が盛んだから、一本乗り遅れたとしてもバスはすぐにやって来る。その面では利便性がいいなと思う。


 あと十分。中途半端なその時間をどうにか潰そうと、ほとんど部室に荷物を置いてきた中で、唯一買い出しの際に持ってきていたスマートフォンを取り出してボタンを押した。


「……雨、やまないですね」


 隣で濡れ鼠になっている後輩の声が小さく聞こえた。その言葉はこちらに対して発したものか、それとも自身に向けた独り言か。後者だと判断し、そのまま目の前の画面をタップする。開いた部活のライングループでは、突然の雨に対し、買い出しに行っていた自分たちを心配するメッセージが送られていた。「次のバスで帰ります」と簡単なメッセージを作成して送信する。すぐに既読が二件ついたので、ちょうどみんな部室で休憩しているのかもしれない。


「……先輩って、俺のこと嫌いだったりしますか」


 隣の後輩の寂しそうな言葉。この場には二人しかいない。どうやらこちらに話しかけていたらしい。

「なんで?」と尋ねてみる。

「だって、全然目を合わせてくれないじゃないですか」

「……聞きたいか?」

「え、そんな深刻な理由なんですか……」


 明らかに落胆した声が聞こえた。つられて気分が下りかけたが、下り坂になるのは天気だけでいいと思い、何とか持ちこたえて後輩の言葉を受ける。


「別にそういうわけじゃないけど……。じゃあヒントをあげよう、服」

「えっ服……あっ」


 これで立場が逆だったらセクハラ案件に発展していたのかもしれない。自分は学校を出る前にちゃんとブレザーを着ていたので、多少ブレザーが湿っていて重いと思うくらいで済んでいる。しかし、佐藤はワイシャツ一枚で出かけたために、直視がはばかられる状態に陥ってしまっているのだ。


「……こうなると分かっていたなら、俺もブレザーを着てきたんですけどね」


 湿ったワイシャツの首元をパタパタと広げて空気を入れ始めた佐藤から視線を外し、再びスマートフォンへと目を向ける。もしかしたら乾かしているつもりなのかもしれない。この場に二人しかいないからまだいいが、他に人がいるところではやるなよ、と少しだけ思った。


「……ブレザー、いる? 湿ってるけど」

「先輩が風邪をひいてしまうので受け取れませんよ」


 後輩の佐藤は、普段通りの飄々とした顔で雨の降る街並みを見ていた。

 雨はまだ降り続けている。


「分かってもらえたか?」

「はい、ちゃんとした理由があったならよかったです」


 それを最後に、後輩から目をそらす。意識はしてないが、やはりジロジロ見るべきではない。ふいと逸らすその瞬間、佐藤がどこか寂しそうに見えたのは気のせいだっただろうか。分からないけど、このままバスが来るまで時間を潰そう。そう決意した時だった。



「塩田先輩」

 佐藤の声が聞こえた。「どうした?」と視線を動かさないまま尋ねる。



「俺、塩田先輩のこと好きなんですけど」



 驚いて、思わずスマートフォンの画面から顔を上げてしまった。


「やっと、こっちを見てくれましたね」


 正面には、どこか得意げな後輩の顔があった。どう考えても今の状況にふさわしくないのに、真っ先に浮かんだのは、してやられた、という気持ちだった。


「シャツが透けてこっちを見てくれないのは分かりました。でも、俺はわがままな後輩なので、それでも先輩にこっちを見ていてほしいんですよ」


 後輩自身も自覚しているそのわがままな言葉に、咄嗟に何も言い返せなかった。



 バスはまだ、やってこない。


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