「やっぱり結局こうなるのか……」


 すぐ背後からアウレディオの声が聞こえる。

 息がかかりそうなほどの距離。

 肩からすっぽりと抱きすくめられている体も、背中に感じる確かな温もりも、眩暈を起こしそうなくらいドキドキが止まらないのに、まるで何か不満でもあるかようなアウレディオの言い方はなんなのだろう。


 甘い気持ちもどこへやら、ムッと体ごとふり返ったエミリアに、アウレディオは

「いてててて」

 と小さな悲鳴を上げた。


 向きあう距離がこれまでより近いことには、あいかわらず胸が鳴るのだが、しきりに腕をさするアウレディオにはついついいつもの調子で、

「どうしたの?」

 とそっけなく聞いてしまう。


 それで甘い雰囲気はもうお終い。

 幼馴染同士なんて、結局こんなものなんだと、エミリアは少し残念に思った。


 アウレディオはシャツの袖をめくって、右腕を見せてくれた。

 手首から肘にかけて、かなり大きな傷ができている。


「何? 痛そうだね」

 思わず顔をしかめたエミリアに、アウレディオはまた大きなため息を吐いた。


「突然倒れた誰かさんを支えるために、腕から滑りこんだんだよ」


(あ、そう、私のせいですね……)

 エミリアは申し訳なさに首を竦めた。


「消毒しなきゃね」

 道具を捜そうとしたエミリアの手を掴み、アウレディオは自分の傷の上にかざす。


「それよりこうしてて」

 傷に触れたところから、エミリアの手は異常に熱くなって、白く輝き始めた。

 その眩しさに目を細めながら見てみれば、てのひらの下ではたちまち傷が消えていく。


「え? ええっ?」

 すっかり綺麗になったアウレディオの腕と、自分の手を驚いて見つめるエミリアに、アウレディオは、

「やっぱりエミリアにもできた」

 と感慨深げに呟いた。


 言葉の意味から推測すると、以前にもやってもらったことがあるのだろうか。

 あるとしたらまちがいなく、それはエミリアの母にだろう。


「『天使の癒しの手』って言うんだってさ。この間リリーナに教えてもらった。お前っていろいろと天使の能力が使えるから、ひょっとしたらできるんじゃないかって、前から一回試してみたかったんだ」

 まるで目新しい発明品か何かのように表現されて、エミリアは頭を抱える。


「もう……もう好きにして……」

 母が帰ってきたあの日から、ごく普通の一般人のつもりだった自分が、どんどん常識から外れていく。


 その驚きにも次第に慣れつつある自分が悲しく、頭を抱え続けるエミリアに、アウレディオがそっと声をかけた。

「エミリア」


「ん……何?」

 まったくいつもの調子で返事をしたのに、返ってきた言葉はとんでもないものだった。


「キスしようか」


「へっ?」

 あまりの唐突さに驚いて飛び跳ね、エミリアは勢い余って、寝台の天蓋を支える支柱におでこをぶつけてしまった。


「おい大丈夫か?」

 冷静に声をかけられて、がばっとアウレディオをふり返る。


(大丈夫じゃないわよ! いきなり何言ってんの!)


 いつの間にか寝台の上に腰を下ろしていたアウレディオは、優しげな顔で微笑んでいた。

 ずいぶん長い間封印していたそんな顔を、今この時、真っ直ぐに向けてくるなんて反則だ。


 得体の知れない自分の能力と、アウレディオの突然の提案に、どちらかといえば怒りに似た感情が大きかったはずなのに、それがすっと萎んでしまう。

 胸が締めつけられるように痛くなって、また涙がこみ上げてきそうになる。


 エミリアは俯いて、こぶしを握りしめた。

「ディオ……ひょっとして自分がミカエルだと思ってるの?」


 涙まじりのエミリアの声に、アウレディオは困ったように、曖昧な笑顔を返した。

「だってお前がそう言ったんだ」


「私が?」

 思いがけない返答に、瞳を瞬かせる。


「そう。四歳ぐらいだったかな……? まだじいちゃんが生きてたから。一緒にお風呂に入ってて、お前が言いだしたんだ。ディオの背中にはお星さまがあるって。じいちゃんも「そう言えばそう見えるね」なんて言ってたから……たぶんまちがいないだろう。この間偶然思い出したんだけどさ……」


 あまりのことにエミリアは開いた口が塞がらなかった。

「い、一緒にお風呂って……!」


「そこかよ! 小さな頃の話だろ」

 こともなげに言って除けるアウレディオに、エミリアは言いよどむ。


「それはそうだけど……私、全然覚えてないよ……!」

 再び頭を抱えたいような気分だった。


 アウレディオは軽くため息を吐いて、何かを決意したかのように上着を脱ぎ始める。


「ち、ちょっと! 何やってんのディオ!」

 真っ赤になって飛び上がったエミリアに、


「今さらだろ」

 と脱ぎ捨てたシャツを渡し、白い背中を向けた。


 くっきりと浮き出たアウレディオの肩甲骨の間には、確かに赤い星のような痣があった。

 泣きたいような気持ちで俯いたエミリアに、アウレディオは脱いだ時と同じように手早く服を着ながら語り続ける。


「たぶんリリーナは知ってたと思う。知っててお前がどうするか、俺がどうするかを見てたんじゃないか? リリーナ自身がミカエルを捜しているところなんて、見たことないだろ? 最初っから、リリーナの仕事は俺の監視だったんだよ」


 確かにそう考えると全てに納得がいった。

 納得はいったけれど、エミリアの気持ちはついていけない。


 着替え終わってエミリアをふり返ったアウレディオは、彼女がまたポロポロと泣き出している姿を見て、腕を伸ばした。


「まったく……しょうがないな」

 口では悪態をつきながらも、胸の中にしっかりと抱きしめる。


「泣かなくていいよ。お前の前からいなくなるのは俺一人だけだ。これからはずっとリリーナがいてくれる。フィオナだっているだろ? せっかく知りあいになったんだから、時々はお城に行って、ランドルフやフェルナンド王子にも会えばいい。きっと喜ぶぞ……」


(嫌だ……)

 意思表示のために、エミリアはアウレディオの腕の中で首を横に振る。

 何度も何度も――。


「楽しいことがいっぱいで、俺のことなんてきっとすぐに忘れるって……」


 言葉に反してエミリアを抱きしめるアウレディオの腕は、痛いくらいに強い。

 その事実が、張り裂けそうに痛いエミリアの胸を、ますます痛くする。


(嫌だ……嫌だ……)


「それにお前はきっともう一度恋をする。今はあんなふうに茶化してるけど、本当はずっとお前を好きだったアルフレッドに、きっともう一度恋をするよ」


 エミリアは気が遠くなるくらいに首を振った。

(そんなの……嫌!)


 誰と親しくなっても、誰に想いを寄せられても、アウレディオがいなくなってしまったあとの寂しさを埋められる気がしない。

 アウレディオの代わりは誰にもできない。


 アウレディオはいつでも、誰よりもエミリアのことをわかってくれる。

 エミリアの自分でもよくわからないような気持ちにも、ちゃんと答えをくれる。

 ――でも一番大事なことだけは、どうしてもわかってくれない。


(私が好きなのはディオなのに! 一番そばにいて欲しいのはディオだけなのに!)


 アウレディオがそれだけは決して「うん」と言わないことが、エミリアにもわかっていて、だからこそ尚一層、涙が止まらなかった。


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