学校に入学するより以前のもっと幼い頃は、エミリアはアルフレッドが、たいそう苦手だった。


 体が大きく、力も強いアルフレッド。

 同じ年頃の男の子でも、女の子のように可愛くて物静かなアウレディオとはまったく違う。

 大きな声も、太い腕も、エミリアはとっても怖かった。


 エミリアの遊び道具を隠したり、長い髪をひっぱったり。

 そのたびに母親にこっぴどく叱られるのに、『ごめんなさい』とふてぶれしく形だけ謝った次の瞬間には、もう違ういたずらを仕掛けてくる。


 アウレディオのうしろに隠れてそれらの攻撃を凌ぐことの多かったエミリアは、今度は他の男の子たちに、『エミリアはアウレディオと結婚するんだろう!』と冷やかされることになった。


 その展開になると、決まってアルフレッドはいつの間にか姿を消していた。

 やんちゃだけど一本筋が通っていて、冷やかしなんかには決して混じらなかったアルフレッド。


 苦手だった近所の男の子が、エミリアの中で、ある日を境に大好きな男の子へと変化した。




 学校に入学して一ヶ月。

 エミリアがようやく学校にも慣れたかという頃、母がある日突然に姿を消した。


『お母さんは故郷に帰ったんだよ』

 父に何度説明されても納得がいかなかったエミリアは、泣きながら近所中を捜しまわった。

『お母さーん、お母さーん、お母さーん!』


『エミリア?』

 異変に気づいたアウレディオが駆けつけた時には、エミリアは服も泥だらけで、すっかり泣き濡れた状態だった。


『ディオ……お母さんがいなくなっちゃったよぅ……』

 抱きつくエミリアの体を、アウレディオはハッと自分から引き剥がし、肩を掴んで顔をのぞきこみ、一言一言ゆっくりと言い聞かせた。


『わかった。俺が捜してくる。絶対に捜してきてやるよ。だからエミリアは家に帰って待ってて』

 力強い足取りで駆けだしていったアウレディオは、そのまま一週間ぐらい、本当に帰ってこなかった。


(大好きなお母さんがいなくなってしまった……ディオも帰ってこない……)

 エミリアはショックのあまり、そのあとしばらくを家の中だけで過ごした。

 アウレディオに言われた『待ってて』の言葉だけを、ただ忠実に守り続けた。




 一歩も家から出ないまま、いったい何日が過ぎたのだろう。

 カランカランと鳴った玄関扉の鐘に、ぼんやりと立ち上がったエミリアは、微かな希望をこめて、扉から入ってきた人物を見つめた。

『ディオ?』

  

 しかしそこに立っていたのは、アウレディオよりかなり大きな男の子だった。

 艶やかな黒髪も、その間から見え隠れする紫色の瞳も、アウレディオとは似ても似つかない。


『え、アルフレッド……? アル?』

 あまりにも意外な人物であり、驚き、目を瞠るエミリアに向かって、アルフレッドはコックリと頷く。


『ああ。昨日もその前もずっと学校休んでるみたいだから……迎えに来た』

 言い方はいつもどおりぶっきらぼうだったが、その時エミリアは、不思議とアルフレッドを怖いとは思わなかった。


『行くぞ』

 という声につられて、普通に返事をする。

『うん』


 数日前から床に放り出したままだった通学用の鞄を拾い、エミリアはアルフレッドのうしろについて学校へと向かった。

 一言も会話は交わさないまま、二人は学校までの道のりを一緒に歩いた。


 着いたらそこでお別れで、帰りも学校を出る門の前で待ってくれており、一緒に帰った。

 エミリアがひさしぶりに家から出て学校へ行ったことに、父がどれほど安堵し、アルフレッドに涙ながらに感謝したかを、エミリアずいぶんあとになってから父に明かされた。




 初日以降も、アルフレッドは毎日、朝になるとエミリアを迎えにきた。

 話もしないで学校までの道のりをただ一緒に歩き、夕方は一緒に帰る。


 それが当たり前の習慣になりつつあった頃、ある日のこと、もうすぐ学校が見えるかという場所で前から大きな犬がやって来て、エミリアは思わず歩みを止めた。

 犬は苦手だった。

 通学路で出会ったら、いつもアウレディオのうしろに隠れてやり過ごすことにしていた。

 けれどそのアウレディオは、今ここにはいない。


(ディオ……)

 立ち竦むエミリアをアルフレッドがふり返った。


 彼はアウレディオではない。何も言わなくとも自分を庇ってくれる相手ではない。だから――。


『犬が……』

 エミリアは勇気を出して訴えた。


 なんだそんなものが怖いのかと、馬鹿にされることも覚悟したのに、アルフレッドは涙声で訴えたエミリアに、黙ったまま手をさし伸べた。


 エミリアの小さなてのひらをギュッと握り、グイグイと引っ張って早足で歩き、あっという間に、大きな犬の横は通り抜けた。


 それがあまりにも簡単なこと過ぎて、エミリアは驚いてアルフレッドの顔を見上げた。

 少しだけふり返ってこちらを見たアルフレッドの、長い前髪の下からのぞく紫色の瞳は、思っていたよりずっと優しい色をしていて、エミリアはなんだかドキドキした。




 次の日も、その次の日もアルフレッドはエミリアを迎えに来た。


 並んで歩く二人を、『いやーお熱いねー』などと冷やかす男の子たちは、あっという間にアルフレッドに捕まり、二度とそんなことは言えないほどの報復を受けた。


 大きな犬が来たら必ず手を繋いでくれるし、急スピードの馬車からは体を張って庇ってくれる。

 アルフレッドはひょっとしたら、エミリアを守ってくれているのかもしれない。


『ありがとう』

 勇気を出して小さな声でお礼を言ってみても、アルフレッドは何も答えないので、エミリアは聞こえていないのかと思った。

 けれど真っ直ぐ前を向いたままの横顔をまた見上げてみたら、頬を真っ赤に染めていたので、エミリアまでなんだか赤くなってしまった。


『ほら、あの子だよ。お母さんがいなくなっちゃったんだってさ』

 ヒソヒソ声の噂話が偶然耳に飛びこんできて、エミリアは一瞬ギクリとする。

 懸命に前に踏み出そうとしていた小さな足が、もうピクリとも動かなくなってしまって途方にくれる。


(いったいどうしたらいいんだろう……?)

 このまま地面に沈み込んでいきそうな気持ちで俯いていたエミリアは、男の子たちの、

『ぎゃあああっ』

 という声に驚いて顔を上げた。


 一人の男の子が、自分よりも大きな上級生の男の子たちに、飛びかかっていったところだった。


『エミリアに! エミリアに謝れ!』

 必死に手足をバタつかせる下級生に驚いて、上級生たちは口々に『ごめん。ごめん』と謝って逃げていった。


 呆気にとられていたエミリアは、その時、アルフレッドが目に涙をいっぱい溜めていることに気がついた。

「どんなに寂しいか! どんなに悲しいか! そんなこともわからないくせに!」


 息を弾ませたアルフレッドの真剣な顔が、だんだん滲んで見えなくなって、エミリアは自分が涙を流していることに、初めて気がついた。


 アルフレッドはエミリアに駆け寄って来ると、まるで世界中の全てから庇うように、背中に隠してくれる。


「俺が誰にも何も言わせないから。エミリアに何か言う奴は、俺がいつでもやっつけてやるから!」

 自分の体がすっぽりと隠れてしまうようなアルフレッドの背中を、エミリアはその時、世界で一番頼りになる背中のように感じた。


 その瞬間から、それまでどちらかといえば苦手だったアルフレッドは、エミリアの大好きな男の子になった。

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