浮かない気持ちで家に帰ったエミリアを、玄関で両手を広げて出迎えてくれたのは母だった。


「お帰りー。衛兵のお仕事、ご苦労さま。今日はエミリアの好きなものたくさん作ったから、いっぱい食べて、よく眠ってねー」


 すこぶるご機嫌な母に手を引かれて、踏みこんだ食堂のテーブルの上には、本当に食べきれないぐらいのご馳走が並んでいる。


「ありがとうお母さん……」


 たいした働きをしなかったとはいえ、慣れない立ち仕事で体も、そしてそれ以上に心も、エミリアは疲れきっていた。

 深く母に感謝する。


 しかし感謝の意をこめて笑ってみたはいいが、正直、上手く笑顔が作れているのかどうかは、自分でも自信がない。


「こんなにたくさん、お父さんと三人でも食べきれるかわからないわね。うーん……せっかくだからアウレディオも呼びましょうか?」


 きっと初めからそのつもりだったのだろうに、たった今思いついたとばかりに手を叩き、母はエミリアを玄関に向かって押し返す。


「エミリア、呼んできてあげてね」


 一瞬、アウレディオと今、顔をあわせることにためらいを感じたエミリアだったが、母に心配をかけたくない一心で頷いた。

「うん」


 こわばらずにいられない顔を母に見られないように、エミリアはそのまま家を出ようとした。

 しかし玄関の扉を開きかけたところで、穏やかな声が背中にかかる。


「エミリア……アウレディオと何かあった?」


 一見おっとりしているようなのに、母はなかなか鋭い。

 それは天使だからなのか。

 それともエミリアの母親だからなのか。

 エミリアにはよくわからない。

 けれど――


「どうして? なんにもないよ……ディオを呼んでくるね」


 背中のまま答えて、エミリアは玄関の扉を開けた。

 ふり返って見てみなくても、母が今、困った顔をしているだろうぐらいは、エミリアにだって想像がついた。




 カランカラン。

 軽やかな鐘の音と共に、大きなお屋敷の古い扉が重々しく開く。


 隙間からこちらをのぞく大きな蒼い瞳に、エミリアの心臓がトクンと跳ねた。


「何?」

 ぶっきらぼうな言い方はいつもどおり。

 そのことになぜか今だけはホッとする。


「お母さんが、夕食たくさん作ったから、一緒に食べようだって」

「そう」


 せいいっぱいの努力で普段どおりを装っているエミリアを観察するかのように、アウレディオは一言言ったまま、微動だにしない。


 黙ったまま見つめられている居心地の悪さに、エミリアはたまらず問いかけた。

「何?」


 瞬間、アウレディオの蒼い瞳が、柔らかな前髪の向こうで輝きを増す。

「お前のほうが俺に聞きたいことがあるんだろ……何?」


 思いがけない言葉にドキリと胸を鳴らしながらも、動揺している自分を知られたくなく、エミリアは必死にがんばった。

「そう思うってことは、心に何かやましいことがあるんでしょ? ……それって何?」


 アウレディオが細めの眉を片方上げて心持ちエミリアを見下ろし、不敵な表情をする。

「俺にはなんにもないよ。それよりお前だろ? ……何?」


 アウレディオが、すでにこの『何』の応酬を面白がっていることは、エミリアにもよくわかっていた。

 エミリア自身も、さっきまでの憂鬱が嘘のように心が軽い。

 思わず笑いが込み上げてきそうなのだが、だからといってここで負けるつもりはさらさらない。


「……ディオが言ってよ。何?」

「い・や・だ。お前が言え。何?」


 がまんできずにエミリアはとうとう吹き出した。


「やだもう、切りがない……!」

「ハハハッ、本当に!」


 アウレディオもまた、エミリアにつられたかのように声を上げて笑った。


(二人でこんなふうに笑ったのなんて、何年ぶりだろう)


 どんな時も表情を変えないと言われるアウレディオの笑顔は、小さな頃と同じお日様のようなキラキラの笑顔だった。


(こんな顔をみんなに見せたら、今以上に大騒ぎになっちゃうよね……)


 笑いながらそんなことを思って、すっかりエミリアの心は晴れた。

 うじうじといつまでも一人で悩んでいるのはしょうにあわないので、ここは思いきって本人に尋ねてみることにする。


「ねえディオ。前に、私が作るお菓子、男の子にはあげるなって言ったでしょ。あれってなんで?」


 それはどうやらアウレディオが予想していた質問とは、まったく違っていたらしい。


「それがいったいなんの関係が……?」

 呆れたように呟く。


 昼間からずっと悩んでいた自分を真っ向から否定されたような気がして、自然とエミリアの口調は強くなった。

「いいから! ねぇどうして?」


 強気で詰め寄られて、アウレディオは眉間に皺を寄せ、首を捻り始めた。

「うーん」


(悩んでいる顔も良いわーって、マチルダたちだったらきっと喜ぶんだろうな……)

 心の中で同僚たちに詫びるエミリアに向かい、アウレディオはようやく口を開いた。


「たぶん……」

「たぶん……何?」


 待ち切れずに聞き返したエミリアに、アウレディオが返した答えは――。


「男に食べさせたら、俺の食べるぶんが減るから……かな?」

「なんなのそれ!」


 あまりのことに、エミリアは頭を抱えた。

 肩の力が抜け、反動でドッと疲れた気がする。


(フィオナが余計なこと言うから、変な心配しちゃったじゃない!)

 内心怒りを覚えながら、ふと首を捻った。


(心配……? 私、いったい何を心配してたの? ディオがフィオナと同じように私のお菓子のことを考えてたとしたら、そしたら……?)


 そして一つの結論にたどり着いた。


(そうよ! ランドルフ様にわざとお菓子を勧めたんじゃないかって思ったのよ!)


 自分の導き出した答えに、自分自身で拍手しながら、この際、その点もハッキリさせておくことにした。


「じゃあどうして今日、ランドルフ様に、私のお菓子を勧めたの?」


 アウレディオは、休憩時間にわざわざランドルフを自分たちのところへ呼んできたようだった。

 それがもしエミリアのお菓子を食べさせるためだったとしたら、どうしてだろう。


 どうやら今度の質問は、アウレディオの予想の範疇内だったらしい。

 すでに用意してあった答えを、瞳を煌かせながら意気揚々と即答する。


「お前の良いところと言ったら料理の腕しかないじゃないか。そこをランドルフ様に見せなくて、どうするんだ? 他にどうしようもないだろ?」

「よけいなお世話よ!」


 あまりの言い草に目を剥いたエミリアを、アウレディオはおもしろそうに笑っている。

 エミリアをからかって喜ぶ昔からの癖は、どうやら根本のところでは変わっていないらしい。


(結局は考え過ぎじゃない……それと言うのもフィオナが変なことを言い出すからよ。明日、ちゃんと訂正しなくちゃ!)


 心の中で決意を固めるエミリアを、

「お前が知りたかったことって、そんなこと? ……あんなに青い顔してたくせに?」

 アウレディオがすっかり笑顔が消えてしまったいつもどおりの無表情で、不審げに見下ろす。


 エミリアはきょとんと瞬いた。

「そうだけど?」


 途端にハアアアッと大きなため息を吐かれた。

 見下すような視線を向けられて、エミリアは心なしムッとする。


(なによ……私の様子がおかしいって気づいてたんだったら、帰る途中ででも声かけてくれればよかったじゃない……!)


 八つ当たり気味の自分勝手な考えだが、そんなことを思っているエミリアの心の奥は、さっきまでとはうって変わって、すっかり晴れていた。


『俺の食べるぶんが減るから』

『お前の取り柄は料理しかないから』


 思い返してみればアウレディオの言葉にはずいぶん失礼な内容が含まれているのに、エミリアにとって重要だったのは、どうやらそんなことではなかったらしい。


「お母さんが待ってるから、早く行くよ」

 先に立って家までの道を歩きながら、エミリアは時々ふり返って、うしろの無愛想な幼馴染の姿を、何度も何度も確認した。


 長い手足を持て余すように、素直に自分のうしろをついてくるアウレディオが、自分の良く知っているアウレディオのままなのが、エミリアは嬉しかった。

 何よりも嬉しかった。

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