第5話 トラウマ
薄明かりの灯る視界がぐにゃりと歪み、光が見え、源治は目を見開くと、そこには案の定、夢で見た、決して暮らしてはならないゴミと吐瀉物にまみれた自分の部屋が広がっている。
「……!?」
目の前の世界を感知しようにも、感知できているのが視界と、ゴキブリがガサゴソと喝破する音だけしか察知できず、体を動かそうにも全く動けないのである。
部屋の片隅には、二人の男女が口からよだれを垂らして恍惚とした表情を浮かべてお互いの体を貪りあっており、それが源治には酷く歪んで映り、強烈な吐き気を覚えるのだが、体が動かないのである。
「ねぇ、これいいじゃないの……」
「あぁ、不純物混じってねぇからな、純正のパケだ。……最高に決まるだろ?」
彼らの、普通の人にはよく分からない会話だが、源治は学生の頃からアングラ系の漫画が好きでよく読んでおり、こんな不気味な言葉が出てくるという事はこれは覚醒剤だなと直ぐに察した。
「うん……ねぇ、この子にも打ってみない?」
女の一言に源治の背中は凍りつく。
「ほう、いいな……強くなるかもしれないな、世の中の荒波を渡ってさあ、大企業に入れたりしちゃってなぁ!」
「そうなったら、私たちの生活は安泰ね!」
女は乳首に貫通しているピアスを指で弄りながら、ひひひ、と卑しい声を上げ、テーブルの上に置かれている注射器を持ち、源治の腕を掴む。
(やめてくれ……!)
源治はこれから襲いかかってくる悪夢を全力で拒絶しようと腹の底から周囲に助けを求める声を絞り出そうとするのだが、全く声が出ない。
注射針が、源治の、ろくに食事を取らせてもらってない貧相な腕の動脈に近づくたびに、胸の鼓動が激しくなってくる。
「えいっ……!」
ブズリ、ととうとう動脈に針が到達し、自慰行為とは到底達し得ない、今まで経験したことが無い快楽が源治に襲い掛かってくる。
「ねぇ、気持ちいいって顔してるわね、可愛い……!」
その女は源治を押し倒す。
****
その日から、毎日のように覚醒剤を打たれた源治は快楽の声を上げて女に求め、まだ3歳児ながら性行為を経験したのである。
そんなある日の事だ――
ギイと扉が開き、警官数名が部屋の中へと入ってくる。
女と男、少年は覚醒剤を打ち、世間様でいう3Pと呼ばれる変態的な性行為に耽っている最中であり、それを目の当たりにした警官達はうっ、と目の前の地獄に目を背ける。
「五十嵐孝之と五十嵐春香だな! 覚醒剤使用及び児童虐待の罪で捜査令状が出てる! 貴様らをこれから拘束する!」
刑事ドラマでお馴染みのスタイルとなった、スーツにベージュのロングコートを着たその中年の刑事は、手錠を手に持って孝之達の元へと向かい、普通ならば抵抗するはずなのだが孝之達はなぜか抵抗せずに、手錠を驚くほどにスムーズにかける。
「やったわね私達! これでテレビに顔が映るしヒーローだわ!」
「あぁ、偉人だぜ!」
逮捕されるのをゲームか何かと勘違いしている孝之達を警官達は見て、こんな両親に育てられた源治は将来精神に異常がある大人になって凶悪犯罪を犯してしまうのではないかと深いため息をつき源治の将来を危惧する。
警官の中に混じった、ベージュのジャケットとくたびれたワイシャツ、紺のチノパンをはいている中年の肌艶の男は、悦に入りビクビクと痙攣をしている源治を哀れみの顔で見つめる。
「坊主、これから助けてやるからな……!」
その男は源治の頭をくしゃくしゃに撫でた。
刹那、源治の目の前が真っ暗になり、意識が深い闇の底へと消えていく。
****
御子柴は高校生の時、ボランティアで児童福祉施設に出向き、そこで幼少時の虐待によるトラウマによって世間に憎悪を持ち敵意を剥き出しにし、また、恐怖に怯える少年達の惨状を目の当たりにした。
この状況は、子供の頃、まだ人格が形成される前に適切な治療を行えば解決できるのではないか、悪い記憶を取り除けばいいのではないかと考えた御子柴は、心理学を学ぶことを決意し、心理学で有名な大学に進学する。
大学4年生になったある日、催眠術により記憶を消すことに成功した論文を見つけ、世界的に有名な催眠術師を探して、大学卒業後に師事する。
数年後、催眠術師から免許皆伝を言い渡された御子柴はすでにその頃から界隈で名が知れ渡っており、その道で働かないかと何度かのオファーがある程の腕前であった。
だが御子柴の心は既に、児童の為に福祉の道に進むことが決まっており、地方の児童福祉施設に勤務し、何度か実験的に催眠術を児童に試し一定の効果が認められ、学術的にも認められた。
35歳の時、貯めた貯金を使いQ町に『ミコ児童園』を開園し、虐待により傷ついた児童のリハビリに従事し、何人もの児童が御子柴により救われて大人になり卒園して行った。
40歳を少し過ぎた頃、知り合いの警察関係者からひどい虐待を受けている児童がいると相談を受け、その現場に立ち会うことになる。
その虐待を受けていた児童が、源治であった。
****
源治は全身に冷や汗をかきながら、うっすらと目蓋を開けると、そこは御子柴に催眠術をかけられた時の部屋であり、この世の地獄から脱出できた事を安堵する。
「……源治、これがお前の失われた記憶だ」
御子柴は、決して見せてはいけないものを見せてしまった後悔をし、複雑な表情を浮かべてメトロノームのスイッチを切る。
「……俺は、ヤバイ親からあんな事をされてたのか……この傷や火傷の跡は、昔遊んだ時のものではなかったんだな……」
源治は根性焼きの跡が点々と、うっすらと残る腕を見てため息をつく。
小学生の頃、全身に残る傷跡がなぜ多いのか源治は御子柴に一度聞いたのだが、子供の時に遊びまわってできた傷跡だと言われていた。
「先生、俺のこの記憶は消せないのか……?」
御子柴は複雑な表情を浮かべて首を横に振り、口を開く。
「残念だが、お前の記憶は消せない。何度か消そうとしたのだが、あまりにも強力過ぎて、封じ込めることしかできなかった。それが、今日、お前が20歳になった時に徐々に蘇ってくる。ただな、記憶は消せないのだが、人格自体を全く一から作り替えて、別の人間にできることはできる、もっともその時点ではお前は記憶喪失と変わらない状態なんだがな……どうするか?」
「……あ!? 嫌だなそんなのは! 人格が変わるってことは俺じゃねえ! 確かに、餓鬼の頃の記憶は消したいが、全く別の人になるのに他の記憶まで消してしまったら、俺は俺である存在理由が無くなる! 嫌だね、俺は俺だ!」
「そうか、分かった、お前がそのつもりでいるのならば、人格は変えないでおこう。ただ、覚醒剤の更生プログラムをいつでも受けられる体制にはしておくからな、俺の知り合いにいるんだよ、腕のいい医者が。もし記憶が蘇ってきてどうしょうもなくなったら、俺の元へと来い……!」
御子柴は源治を、何があっても守り抜くという愛おしい眼差しで見つめ、源治の胸に、熱いものが込み上げてきて、源治は思わず顔を下に向けた。
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