第2話
そうだ。俺は包丁を掴むことができない。
「恐らくは一時的なものでしょう。まだ事件のショックから抜け出せていないことが原因だと言えます。まあ、いわゆるトラウマというものですから、焦らず、ゆっくり克服していきましょう」
あの日以来触る機会がなかったために、小学校の調理実習で不用意にも包丁を持ち、そのまま気を失ってしまった俺に医師はそう告げたのだ。
一時的なもの……か。
あれからもう七年も経つが、改善の兆しはほとんど見られなかった。幾度試してみても、結果は同じ。
俺はまな板の上に横たわった包丁をそのままに、おぼつかない足取りでふらふらと自分の部屋に戻った。机の上に鞄を置き、椅子に腰かける。
――なんだこれ?
俺は置いた鞄の下に見覚えのない茶封筒が置かれているのに気付いた。表側には何も書かれていない。
裏返してみると、宛先は自分だった。差出人は不明。加えて消印はどこにも押されていなかった。
誰かのいたずらだろうか。だとしたら少し気味が悪い。
なんにせよ内容を確認しないことには始まらない、と思い切って封を切ってみる。中には三つ折りになった紙が一枚だけ入っていた。
《招待状》
紙を開くと、大きな赤い文字で印刷された三文字が目に飛び込んできた。その下には日付、時間、と文字が続き、下部には地図が描かれていた。そして……
「異世界更生プロジェクト……?」
紙の一番右下の部分に、小さく薄い文字でそう書いてある。聞きなれない言葉だった。
異世界。
俺がいる世界とは別に、複数の世界が存在しているのだと昔聞いたことがある。元々は作り話に過ぎないと考えられていたが、数百年前に大規模な地形変動が起こり、各世界とつながる出入口が現れた、と科学者によって発表されたらしい。
俺の暮らすこの世界はその中でも最も平凡な世界。その一方で特殊能力を持つ世界や魔法を使える世界も存在しているのだ、とか報道番組のコメンテーターが興奮気味に話していたのを思い出した。
そいつは確か、こんなことも言っていた。
噂によると、各世界の行き来ができるのはほんの一握りの人だけ。最難関試験を突破した相当頭の切れる人と、世界のトップ官僚のみ。定められた時期にだけ行き来が許可されるのだそうだ。それに加えて、各世界の情報は最重要機密という扱いになっている、と。
だから実際のところは謎に包まれたままなのだ。異世界論だとか、超常論だとかで、一部のコアなマニアの中で一時期話題になっただけ、それだけの話だった。
異世界の存在を本当に信じている人は一体どれだけいるのだろうか。現実味に書ける話だ。しかし、閉塞したこの世界とは違う自由な世界、それが存在する可能性を所詮作り話だと笑い飛ばすことができずにいた。
俺は手紙に印字された《異世界更生プロジェクト》の文字をもう一度まじまじと見つめた。
更生。生き返る、という意味もあるが
だとしたら、この手紙の差出人は少なくとも俺の過去を知っているということになるのではないか。俺の過ちを知って、俺を更生させようということにならないか。
誰かが
少しの興味と不信感を胸に、卓上の時計に目をやる。短針は間もなく六時を指そうとしていた。
手紙に書かれた集合日時は今日の午後八時。後二時間ほどしかなかった。すぐにでも行って真偽を確かめよう。誰が何のためにこんな事をしたのか。もし悪戯ならば文句の一つでも言ってやろう。
俺は最低限の荷物だけを鞄に詰めて
――ここか……
地図に書かれた場所と今いる場所を見比べる。そこには古びた洋館があるわけでもなければ、立派なビルがあるわけでも怪しい洞窟があるわけでもなかった。あと二三分もすれば約束の時間のはずだが人一人として見当たらない。
悪戯だったか……?
俺がたどり着いた先は広大な原っぱだった。そしてその真ん中には、一輪の真っ白なカトレアが凛とした姿で咲いていた。帰ろうと踵を返そうとした時だった。
――白いカトレアの花言葉は、魔力。
頭の中で女の人の声が聞こえた。透き通る、まるで歌声のような美しい声。
――貴方は、選ばれしもの。さあ、行きなさい。
その時、カトレアが揺れたような気がした。ふわりと甘い匂いが漂う。
――チリン
風鈴のような音がしたかと思うと、辺り一面が見る見るうちに白いカトレアで覆われていく。
……さっきまで、一輪しか咲いてなかったよな?
目をこすり再び辺りを見渡してみる。さっきの原っぱも、歩いてきた道も跡形もなく消えていた。
――チリン
鈴の音がもう一度聞こえた。
……ここは?
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