第1話

 ――7年後――


 キーンコーンカーンコーン


「はい、今日の授業はここまでです。このままホームルーム始めます。ほら! 皆さん静かに!」


 いつも以上に騒がしい教室は年末年始のバーゲンセールのようで頭が痛くなる。彼女の話に耳を傾ける人などほとんどいない。


「えー皆さん、明日から夏休みが始まるので楽しみな気持ちは分かりますが…… もう高2ですからしっかり勉強もしてくださいね。分かっていると思いますけど、遊びと勉強はメリハリが大事です。悔いのないようにしてください」


 勉強、という単語が聞こえるとすぐ、「えー嫌だ」とか「誰がするか!」とかいう不満で先生の声は半ばかき消されていく。


 先生という職業も大変だな。わざわざ言う事を聞かない子供を相手にしないといけない。


 ガヤガヤしたまま静まることなく、あっさりとホームルームは終了。先生も今日くらいは騒がしくても仕方がない、とあきらめているのだろう。


 生徒たちは明日からの長期休暇への期待に胸を膨らましながら教科書をカバンに詰めたり、机に腰を掛けてお喋りを続行したり、せわしなく動いている。


 ――さてと。


 読みかけの本を閉じ、首に掛けていたヘッドホンを耳に当て、俺は教室を後にした。


 喧騒は嫌いだ。


 意味もなくはしゃぎ、大声を出すなんて疲れるだけだし体力の無駄だとさえ思う。

 小説や新書でも読んで教養を身につけたほうがずっとましだ。


 熱気であふれかえる学校から逃げるようにすばやく靴を履き替え、下駄箱を抜ける。

 朝降っていた雨はいつの間にか止んでいた。

 雨上がりの空、きらりと揺らめく雫。

 息をすると喉の奥がしっとりとするような重く、それでいてどこか新鮮な空気。


 大きく深呼吸をすると自分でも疲れた心がふっと軽くなっていくのがわかった。


 ――いっそ雨が全部洗い流してくれればいいのに。過去も、そして未来も……




「悠斗!!」


 左肩に鈍い痛みが走る。


 くっ……


 顔をしかめながらヘッドホンを外し左側を向くと、一人の女子がニヤニヤしながら横に突っ立ていた。右手で思いっ切り叩かれたらしい。


 身長は俺より少し低く165㎝くらい。すらりとしていて、運動部らしく程よく引き締まった容姿。

 ベージュがかった髪は高い位置で一つに結ばれ、毛先は風が吹く度にふわりと揺れる。


「なーに辛気臭い顔してんの? ほんといつもつまんなさそうだよね」


「うるさいな。毎日充実してるから問題ない」


「充実って言ったって、どうせ大した事してないんでしょ? 明日から夏休みなんだよ! 高校生の夏は今しかないの!」


 肩からずり落ちた鞄を持ち直しながらそいつはやけに嬉しそうにそう言った。


 せっかくの一人の時間を殆ど楽しめなかったのは不満だが、話しかけたからにはそれなりの用があるはずだ。でなきゃ俺なんかに声を掛けるような物好きはいない。


 すねると面倒だしな、こいつ。


「……で? 何の用?」


「いい質問だねぇ悠斗くん。この小森夏花さんが教えてあげよう」


 夏花は待ってましたと言わんばかりに人差し指をチッチッチと動かす。


 なんか調子狂うな……


「どうせさ、悠斗のことだから、夏休み暇でしょ? だから少しくらいあんたのために時間割いてあげようかなーって」


「は?」


「だーかーらー!! 一日くらい一緒に遊んであげるって言ってるの!」


 なんでわからないかなあ……


 むすっとした顔で何かを呟いたと思ったら、彼女はすぐに両手を高く上に掲げて手首をクイッと曲げ、軽やかに飛んで見せた。


 この動きは……


「バスケットボール?」


「そう。久しぶりにやってみたくなっちゃった。中学の時の県大会、結構いいところまで行けてたんだけど。

 ……あ、でももう大丈夫だから! 怪我も実力のうちって言うし」


「……俺は遠慮しとく。もっと上手い人に頼みなよ。クラスの人とかさ」


「つれないなあ。……分かった。無理にとは言わないからさ。でもやりたくなったらいつでも言って! 家まで会いに行ってあげる!」


 夏花が得意げにふふんと鼻を鳴らす。とぼけているのか……?


「……住んでるところ、一緒だけど」


「そうだった、そうだった! ま、細かいところは置いといてさ、人生、もっと楽しみなよ! じゃ、お先!!」


 それだけ言うと、「お待たせ!」と数メートル先を歩いていた友達のところに走って戻っていった。


 はあ…… ほんと、風のような人だな。


 両手でヘッドホンを付け直し、俺はやれやれとため息をついた。


 人と馴れ合うのも苦手だ。誰だって見かけでは想像もつかない黒い部分がある。もちろん俺にも。

 その黒い部分はどんなものなのか、いつ顔を出すのか。


 想像できない、証明できないものほど不安定で怖いものはない。今まで大切にしてきた物も、関係も一瞬で崩し去ってしまう。


 いつからだろう。善意も、優しさも、なにもかもが信じられなくなってしまった。





 そんなことを紋々もんもんと考えながら細い路地へと歩くこと数分、俺は年季の入った建物の前に立ち、玄関扉のちょうど真上に取り付けられた看板を見上げた。嫌になるほど見慣れた看板だった。


 ――小日向児童園


 そこには古びた文字でこう書かれている。俗に言う児童養護施設。そして俺や夏花が生活している場所でもある。今日も帰ってきてしまった。はあ、と短い溜息を洩らしながら再び歩き出す。


「あら、悠斗くんお帰り。お台所にお菓子用意してるから、適当に取って食べてね」


 建物から少し離れた位置から一人の女性が俺に呼び掛けてきた。日よけの帽子をかぶり、黙々と手を動かしながらも顔だけはしっかりとこちらに向けて、彼女が微笑む。


 彼女が立っている場所は小日向児童園の専用の畑。なんでも有機栽培を行っているらしく、施設で出される食事に使われている野菜のほとんどを占めるほど毎年豊作らしい。以前の管理者がこの施設で暮らす子供たちが自分の手で栽培し、収穫する喜びを感じられるように作らせた、と聞いている。畑ができた当初はみんなで分担しながら畑作業をこなしていたらしいが、その習慣は今や残っていない。


 そして、今現在この畑を管理しているのが小日向児童園の現管理者のこの女性である。背は低く若干ふくよかな体型彼女の全身と緩やかに垂れ下がった目尻からは包容力がにじみ出ていて、これを優しさオーラと言ってもいいかもしれない。優しくて頼りがいがあるが時に厳しい、理想的な母親像を完璧に具現化した、そんな女性である。子供たちからはお母さんと呼ばれ、慕われている。


 だが……


「ありがとうございます、根岸さん」


 俺はこう返事をした。その言葉を聞くと根岸さんはいつものように少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「いいえ、気にしないで頂戴ね」


 少しの気まずい空気に耐えかね、軽い会釈を交わすと足早に畑を離れた。 


 親のように慕えないことに胸が痛まない訳ではなかった。小さく鋭い何かが胸に突き刺さるような感覚はある。


 根岸さんほど、俺たちを本当の子供のように優しく、厳しく育ててくれる人はいない。ここで暮らす子供に、いつでも真剣に向き合ってくれている。俺たちにかけてくれる言葉にきっと裏表なんて無い。あの時の言葉も。そんなことは痛いほど分かっている。何年も一緒にいるのだから。


 でも……となど呼べない。


 俺はまだ根岸さんのことを信じ切れていないのかもしれない。

 何年も一緒にいるのに。




 施設へ入り、手洗いを済ませて制服から部屋着に着替える。台所へ向かうと、いつもより少し豪華なお菓子が並んでいた。適当に皿に乗せてから邪魔にならないように皿を端に寄せ、空いたスペースにまな板を敷く。そして周囲に誰もいないことを確認する。人の気配はなかった。


 ――よし。今日こそは……


 唾を飲み込み、息を整える。チクリと手のひらに痛みを感じ、俺は知らないうちに自分の手を強く握りしめていたことに気付く。りきむこぶしを緩めてゆっくりと手を伸ばす。そして小ぶりの包丁の柄を掴み、そのまま持ち上げ……


 ――ガタン


 気が付くとつかんだはずの包丁は、手からすり抜け、大きな音と共にまな板の上に横たわっていた。

 手が小刻みに震えている。得体のしれない何かが喉から込み上げてきた。吐き気がする。ひやりと嫌な汗が頬を伝っていくのが分かった。


 はぁ……はぁ……


 息が上がる。呼吸が荒くなっていくのを感じる。心臓がドクドクと熱い脈を打つ。


 くそっ……どうして……


 今にも吐き出しそうなほど苦しい。上手く呼吸が出来ない。どろりとした赤い液体が飛び散る映像が、頭の中に流れ込んでくる。目を閉じてもなお消えずに、浮かび上がってくる。


 足の力は抜け、俺はそのまま崩れるようにその場にしゃがみこんだ。


 静まり返った空気に心臓の音と荒い息遣いだけが響き渡る。これを何度繰り返しただろう。





 ――これは、俺への罰。死ぬまで背負い続けろ。


 そんな言葉が一瞬、脳裏をかすめた。

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