異世界更生プロジェクト

碓氷凪

プロローグ

 ――バチン


「やめ……て…… お願い……」


「ごめんなさい…… ぜんぶ私が悪いの…… だからあの子だけは……」


 ――ガシャン


「うるさい! お前はただ、黙って俺の言う事だけきいてればいいんだ」


 怖い、怖い、怖い。


 思わず目をつむる。顔じゅうの力を込め、視界を遮断する。


 嫌だ。もう何も聞きたくない。ここから逃げ出してしまいたい。


 でも……


 動け、という指令は足にまで届いてくれない。身体はこわばり、ただじっとうずくまり耳を塞ぐことしか出来ない。


 神様、どうか助けてください。これからはいい子にするから……


 ――ドン!!!!!


 きゃあ、という小さな悲鳴とともに、とても嫌な音が響いた。


 そして――何の音も聞こえなくなった。


 ……え?


 恐る恐る目を開ける。ぼやけた視界に映ったのは棚の前に倒れ込んでピクリとも動かないお母さんの姿だった。両手をだらりとたらし、全身から力が抜けているのが見て取れた。


「……お母さん?」


 頭からどろりと赤い何かが流れ出てくるのが見える。

 これは……血………?


 ドクドクと早まる自分の心臓の音。時々呻く母の声。

 嫌だとも怖いとも助けを呼ばなくちゃとすらも考えられなかった。


「悠斗、ごめんね…… お母さん、もうあなたの事守ってあげられないかもしれない……」


 母の優しい声で途端に現実に引き戻される。


「……なに、言ってるの? 嫌だよ、そんなこと……」


 理解できていないと思い込んでいただけで、きっと頭の奥では何が起こっているかなんてとっくに分かっていたんだ。


「何もしてあげられなかったけど……最後に一つ、お母さんの我儘……きいてくれる?」


「きく……ぎぐがらぁぁぁ」


「逃げて、悠斗……! あなたは……幸せに生きて……」


 お母さんの手が僕に向かってゆらりと動いた。小刻みに震えながら差し出されたその手に近づこうと必死に立ち上がろうとした。


 トサッ――


 僕がその手をつかむ前に、差し伸ばされたその手は床へ崩れ落ちた。







「……お母さん!!! ねえ、お母さんってば!!」


 今、何が起きた?お母さんが……


 頭の中なんてぐちゃぐちゃで、叫びだしたいけど声が出ない。


 倒れたお母さんの前でお父さんは立ちすくんでいた。後ろの僕には目もくれずに。


 嫌だ。許せない。嫌だ。


 そして――何かがプツリと切れるような音がした。








 ――グヘッ……


 へ?嫌な音と同時に、手にはと変な感触。生暖かいヌルヌルしたものが顔にかかる。


 あか、い……?


 自分の手に付いたものをみて、血の気が引いていく。その瞬間だった。




 ――ドン


 鈍い音とともに目の前に立っていたはずの大きなものが崩れ落ちて床に転がった。


「お父……さん……?」




 手から小型ナイフが滑り落ちる。


 自分の手から滑り落ちたそれを認識した。徐々に手足の感覚がなくなっていく。膝の力が抜け、頭が冷たく真っ白になるのが分かった。

 耳は何の音も拾わなかった。ただ空白の時間が流れる。

 それは1秒のようにも1時間のようにも感じた。


 薄れゆく意識の中で必死に状況を理 解しようとしたが心臓がドクドクとうなっているのを感じるだけで頭は働いてくれない。


「僕は……何を……」









 ――目が覚めると、見知らぬ部屋のベッドのなかだった。


 どうしてここに……


 思い出そうとすると頭がズキズキと疼いた。本能が、思い出すなと言っているのだろうか。

 頭はまだ、薄闇色のもやがかかったように、暗くぼんやりしていた。

 思考すればするほど、疼きは強く、鋭くなっていく。


 無理に思い出さなくてもいいのかもしれない。


 ふと、そう思った。思い出してしまったら、自分の中の何かが壊れてしまう気がする。

 そうなれば幸せになんてなれない。


 幸せ……? どこかでそれを……


 心臓の鼓動が加速し、動揺する。


 ――コンコン

 ――ガラガラガラ


 誰かが扉を開く。知らない人だ。


「悠斗くん? あなたが氷見悠斗くんね? 怪我、してなくて安心したわ」


「……誰?」


「自己紹介がまだでしたね。根岸よしえ、といいます。悠斗くんとお話しにきました。遠慮しないで何でも話してね」


 突然の来訪者は、一言一言とても丁寧に話した。ゆっくりと紡ぎだされる言葉は、特別変わった言葉ではなかったけれど、なんだか胸のあたりがじんわりと温かくなる。

 上手く言葉に出来ない、でも安心という一言で片づけるにはあまりに簡単すぎる、そんな気持ちだ。


「そうだ、フルーツでも食べますか? お腹、すいてるでしょう?」


 根岸さんはそう言いながらガサゴソと紙袋を手繰り寄せ、中に入っていたビニール袋を順番に取り出す。


「バナナとミカン、それにリンゴもありますよ。」


 並べられたフルーツを見て、身体が固まった。黄色いバナナ、オレンジ色のミカン。


 そして赤い……リンゴ……赤…………あか……


 その瞬間に閃光が走った。全て、思い出してしまった。

 脳内で再生されるのは部屋の温度、薄暗さ、響く声、あの感触、そして自分が何をしたか……。


「お母さん、お父さん……」


 視界がぼやける。目から熱いものがとめどなく流れてくる。止め方が分からない。


 うぇ……う……うわああああああああああああん




 それから、根岸さんは何も言わずに僕を抱きしめてくれた。頭をやさしくなでてくれた。

 そのぬくもりはくすぐったくて、やけに懐かしく思えた。


 僕が泣き疲れて眠ってしまう直前、一度だけ根岸さんの唇が動いた。


「どんなに辛く、苦しくても忘れないで。私があなたを守るから……」








 白衣をまとった男が、ニヤリと神妙な笑みを浮かべた。


「氷見悠斗、年は……10歳か。悪くない。」


「決めたんですか、黒岩さん。くくくっ。これでようやく始められます」


 同じく白衣をまとったもう一人の男は、片手で眼鏡を直しながら心底嬉しそうに笑う。


「お前はずいぶんと悪い顔をするようになったな」


「くくくっ。貴方も負けていませんよ」


「それもそうか。私たちの計画はここから始まるのだよ。さあ、存分に楽しませてもらおうじゃないか。被験者ナンバー001くん」

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