第5話 ランニング訓練
「バサス、アベル知らない?」
大講義室。魔術基礎学の講義が終わり、各学科の生徒たちはそれぞれサークル活動や、自習のために外へ出ており、席の1割ほどしか埋まっていない中、せわしない様子でコレットが言った。
「図書館に行ったよ」
「連れ出しに行こう! 来て!」
「ええ、どうして?」
バサスは残って講義の復習がしたかった。
「ラシェルちゃんとヴァレンタインくんが決闘だって!」
「へえ……それは興味深いね」
「でしょ!?」
ヴァレンタイン・ゴールド。ブレイブ大学憲兵騎士科Aクラスの1年生であり、入学成績はラシェルに次ぐ2位。つまり、ブレイブ大学1年生のナンバーツーと見れる存在であった。もっともその序列は入学試験での基準にすぎない。優劣をつけるには、入学後一週間未満という期間は短すぎた。
しかし今日、剣術においては明確にどちらが上か示されるということだ。
「アベル〜!」
図書館で大声を上げるコレットを、図書委員の女子生徒が睨み付ける。
「今、緊急事態なんで!」
小声でそう言ってから、全力で走り出す。
「すみません、すみません」
バサスが代わりに謝罪している間に、コレットは階段を駆け上がり、吹き抜けの中二階から行ける自習室へ入った。
「アベルアベルアベルアベル!」
「図書館ででかい声出すんじゃねえ!!」
資料や図書を広げ、作業をしていたアベルが怒鳴る。
「アベルの方がでかい声出してるよ! ってかそれどころじゃない! 大変だよ! ラシェルちゃんとヴァレンタインくんが決闘だって!」
「おお、そうか」
「見に行こう!」
「断る」
「よーし、場所は…………は?」
既に出発しようとして、コレットはアベルに背を向けていた。
「俺は興味ないから。バサスとでも行ってこい」
「いや、あの、アベルさん? これがどういうことか分かっておりますですか?」
衝撃のあまり、コレットの口調が狂う。
「1年生トップが決まるってことだろ? 別にどっちでもいいし、俺は大学でトップを目指してるわけじゃない」
「でもでもー! ラシェルちゃんのライバルとしては重要な対決なんじゃないの!?」
「それはラシェルが一方的に……ライバルだとしても、そこまで注目するもんじゃないって。たぶん、ラシェルの勝ちだし。分かったら失せろ、そろそろ周りの視線が痛い。お前はともかく、俺は今後ともこの図書館を利用していくんだ」
「えー、いやいや、でもさー……えー……あーもう始まっちゃう! もう知らない、アベルのばかっ! もう二度とデート行ってあげないんだから!!」
喧嘩中の猫のように喚いてから、コレットは去って行った。アベルに対する、他の図書館利用者からの注目だけを残して。しかしそのうちの何人かは、コレットの話を聞いて荷物を片付け始めていた。
(デートってまさかパンケーキのあれか? あれってデートに換算されるものなのか?)
「うひゃ〜、凄い人数! 私決闘でここまで人が集まるって中々ないんじゃないかなあ?」
ラシェルとヴァレンタインが決闘するという法学棟前広場では、すでに百人近くの生徒が集まっていた。
「何せ、ゴールド家だからね」
ゴールド家はブレイブ王国を代表する三大名家がうちの一角、その現頭首の長男がヴァレンタインである。高等部時代は王国軍の派兵にも同行し、ナイトの勲章を授与されているほどの名実共にあるエリートであった。
「……ねえ。バサスはどっちが勝つと思う?」
「たぶん、ラシェルかな」
「アベルも同じこと言ってた。何で分かるの?」
「入学試験で二人の動きは見てるし。あとやっぱり、ラシェルの動きは尋常じゃないよ。あ、始まるね」
ラシェルとヴァレンタインが向き合っている。審判がハンカチを落とす。
「下手すれば一撃じゃないかな。ラシェルの一撃を受けてからが勝負になってくると思うけど……」
バサスが言い終わる前に、ヴァレンタインの木剣が宙を舞っていた。カラン、カランと乾いた音が、静かになった広場に響く。
「あー、やっぱり受けられなかったか。ヴァレンタインとしても準備をしていたんだと思うけどね。ラシェルが二回フェイントした。初動の足さばきと、次に剣。やっぱり、ああいうこともできるんだなあ。流石だなあ」
既に審判は去っていたが、観客たちは何が起きたか理解しきれておらず、ざわつきながらその場に居続けた。コレットもその一人で、ぽかんと口を開けたままバサスの解説を聞いていた。
「あの程度、造作もないことだ」
「ひゃあっ!?」
突然ラシェルに話しかけられ、コレットはバサスの後ろに隠れる。ラシェルの隣には、従者のティアもいた。
「アベル・フェルマーはいないのか?」
「図書館でなんかやってるよ」
バサスが答える。
「まあ、あいつからすればその程度のカードだったということだろう。バサス、貴方が今ここで決闘を申し込んでくれたら、さすがの奴も筆を置いて走ってくるかもな?」
「……あまり人のやり方に口出すのもどうかもしれないけど、そういうやり方してると今後大変だよ?」
ブレイブ大学の優秀者は、将来的に大きな組織を率いることになる者ばかりだ。つまり優秀者同士の決闘で、例えば侮辱的な敗北を与えたりでもすれば、将来の取引相手や協力相手を失うかもしれないというリスクを持つ。
(アベルはその点、意外と弁えてるんだよね。そこのところの価値観って、意外とイメージと逆なんだよね、ラシェルとアベルって。)
「そのような関係づくりなど知ったことではない。私は私自身の手で魔族を討ち、滅ぼす。それだけだ」
「僕はそこまで割り切れないな……ごめんね」
「やれやれ……お前といい、アベルといい。まあいい。ティア、行くぞ」
「はっ」
ラシェルとティアを見送ってから、コレットが口を開く。
「言いたいことは色々あるんだけど……逆に何も出てこないというか……。とりあえず、バサスって何者!?」
「ただの騎士候補だよ」
「おぶえぇえっ!!」
校庭で吐き散らかす美少女の名は、コレット・シャイニング。王国最高学府であるブレイブ王立大学憲兵騎士科Aクラスのエリートである。
「ちょっと大丈夫!?」
同じクラスの少女が、彼女の背をさする。
「人の心配をしている場合か? サラ・シャロン! 遅れたら追加で周回だぞ!」
教官が怒鳴る。
「ご、ごめんねコレット!」
サラは走りを再開させた。
「だ、いじょうぶ……だいじょぶ……はぁっ、はぁっ」
美少女がそんな事態になっていようと、サラ以外誰も目も留めない。そもそも、大半の生徒の目はとじられているか、地か空を見ているかのどちらかである。唯一前を見ている先頭集団のラシェルがコレットの吐瀉物を踏みつけ、先に行った。
「うへぇっ、やば、私も周回遅れ……」
コレットが周回遅れとなったことで、ついに先頭集団とサラ以外の生徒全員が周回遅れとなった。
このランニングは時間の定めが特になく、教官が終了を言い渡すまで続く。ただし、終了時点で先頭の者から周回遅れになっていた場合、追加で校庭を千周させられる。
つまり、先頭集団をキープし続けなければ、もう一段の地獄が待っているというわけだ。
「だりいきちいだりいきちいくっそだりい〜〜〜〜! やめたいやめたいやめたい!」
先頭集団の最後尾でアベルが喚く。
「カレー……パスタ……ケーキ……」
バサスは水属性魔物になったかのごとく汗を流しながら、献立名を呟き続けている。
「はぁっはぁっはぁっ!」
激しく息切れしながらその少し前を走るのは、教会騎士科Aクラス、エレーナ・デ・ロイヤルバーグ。
「はあっはあっ!」
その少し前を走る青年の名は、ヴァレンタイン・ゴールド。憲兵騎士科Aクラス1位のエリートである。ヘルメットのような金髪と眼鏡が特徴だ。
「はぁっはぁっ! クソがッ!」
その前を走るのは、ダロ・イグニティ。同じく憲兵騎士科Aクラス。三白眼と、男性ながらに長い赤髪が特徴だ。
「……」
そのわずか先を、顔色変えずに走るのは、ティア・サントメール。教会騎士科Aクラス。ショートの赤髪と白のカチューシャが特徴の少女だ。
その先、つまり先頭を行くのは、ラシェル・ユースティティア。教会騎士科Aクラスおよび全学年を併せた1位。一心不乱に走り続けている。
「あ〜くそラシェルばかばかばか! ペース落とせよ! 俺たちまで迷惑被っちゃってんだよ!」
アベルが叫ぶ。ラシェルはそれが聞こえた瞬間、スピードを上げた。
「アベル、逆効果だ!」
ダロが叫ぶ。
「もう何言ってもだめか!?」
「アベル! てめえリタイアしろ! てめえが振るい落とされりゃ少しはやる気失うだろ!」
「誰がするかバカタレが! ダロてめえがリタイアしろ!」
「口を謹みなさい! はあっ、はあっ! ラシェル様の走りを、はあっ、阻害するなどっ!」
エレーナが息絶え絶えに口を挟む。
「そう言うお前が一番苦しそうじゃねーか! はあはあ、エレーナ、叫べ! 二度と尊敬するかバカラシェルと! ペース配分も、集団行動もできないだなんて見損ないましたわと! はぁっはぁっ!」
と、アベル。
「エレーナ、せーの!」
と、ダロ。
「誰がっ! はぁっはぁっ! 言うかボケェ!! はぁっ、ですわっ!」
「ちくしょう完全にミスった! これスタートして一歩も動かず周回遅れになって、千周してた方が遥かに楽だった!」
「そこまでの判断力を求められていたのか……! それに気づくとは。さすがアベルくんだ!」
ヴァレンタインはそう言って落ちかけていたメガネを上げた。実はこの動作はランニングが始まってから記念すべき五百回目である。彼はラシェルに敗北して以来、なぜかアベルに対して尊敬の意を伝えてくる。
その時、ティアが倒れた。
「ティアッ! くそぉっ……!」
ラシェルはそれを見やると、悔しそうに速度を上げた。
「あいつ、ついに従者を置き去りにしやがった!」
「そんでよく『よくもティアを!』みたいな顔できるな! 100お前のせいだろ!」
「ステーキ……ハンバーグ……チキン……」
「まずい、バサスが肉類しか呟かなくなってきた。これは危険信号だ!」
「そうなの!?」
彼らは既に10時間以上走り続けていた。暗闇がどんどん増していく中。魔法灯が点けられ、グラウンドが淡い橙色に照らされている。
「も、もうダメだ……」
ラシェルから初めて弱音が漏れた。
「おい、聞いたか今の……」
「……まじかよ」
「サーモン……!」
「そ、んな。ラシェル様は、まだまだっ!」
「走りでは、負けないぞ! ラシェル・ユースティティアっ!」
アベル、ダロ、バサス、エレーナ、ヴァレンタイン。各員が奮起したその時。
「終了だ! 全員帰宅して結構!」
と、教官の声。それを聞いた瞬間、ラシェルを除いた全員が倒れ伏した。
「あああああああああ! 終わったあああああああああ!」
「っしゃあああああああ!」
「マンゴーゼリー……!」
「ああ、疲れたっ……!」
「はあはあはあっ……! なんとか、残れましたわ……!」
五人は歓喜に震え、地面でのたうち回る。たとえ近くに誰かの吐瀉物や汚物があったとしても、誰も気にしていなかった。
「ってか、いつまで走ってるんだアイツ……」
アベルはよろよろと立ち上がり、その行先を見届けた。ラシェルは外付けの女子トイレに直行していた。
「あああああああッ!!」
「……まさかあいつ、トイレに行くために俺たちを振るい落としたかっただけ……?」
「尿意を耐えながらあのスピード……おそるべしラシェル・ユースティティア……!」
「いや大かも」
「殺しますわよ。ラシェル、様が、トイレになど、いく、はずがっ!」
「エレーナ、お前はラシェルを何だと思っているんだ。つーかトイレとかもう、今更だろ……」
既に先頭集団の全員は、最低1回ずつの失禁と嘔吐のノルマを果たしていた。それまでは水魔術で洗えば良かったが、今や誰も魔術を使う体力が残されていないため、そこを気にしていたのだろう。だとしても、今更だ。
「……これはたとえ貴族であろうとも、トイレなどの体裁を戦闘で気にしないようにするためのトレーニングなのかもしれないな」
「なるほど、さすがブレイブ大学……! 素晴らしい教育方針だ……!」
「僕もう空腹が耐えられないッ! 食堂行こうみんな!」
「そのまま行くつもりか!? とりあえず風呂に……いや池だ! 軍事教練棟裏手の池は近くて綺麗だ! ……ていうかお前だれ?」
「え?」
バサス・ジークフリートは過酷な走りの末に、顔の余分な脂肪分が全て燃え尽き、美少年と呼べる顔つきに変貌していた。
「ああもう、最悪ですわ……このわたくしが、こんな……」
「エレーナ。これは誰のせいだ? せーの!」
と、アベル。
「誰が言うか! ですわッ!」
「お前の中で答え出てるじゃねーか」
「あっ……うるさい! ですわ!」
エレーナはアベルにビンタした。
全員でふらふらと池へ向かう。アベルはふと、倒れているティアに目をやった。彼女は立ち上がろうともがきながら、荒く息を吐き続けていた。
「はあっ! はあっ! はあっ!」
「過呼吸か」
アベルはティアの元へ向かった。
「うつ伏せになれ」
ティアはアベルに目をやらないまま、言うがままにした。
「よし。とにかく落ち着け、大丈夫だ。お前は周回遅れになっていない。ギリギリセーフだ、安心しろ」
そう言ってティアの背中を撫でる。呼吸が徐々に落ち着いてくる。ティアは立ち上がろうとしたが、アベルは背中を押して止めた。
「無理すんな」
「ラシェル様が……!」
「ラシェルは今こっちにきてるぞ」
「ティア! 大丈夫か!」
ラシェルが濡れたハーフパンツをシャツで隠しながら、二人の元へ駆けつけた。
「申し訳ございません、ラシェル様……!」
「気にするな。私も少しとばしすぎた」
「自覚あったんじゃねーか」
「うるさい! それよりも……従者が世話になったな。ありがとう」
「ああ、いや……感謝されるほどのことでは……あ、ラシェルも池入ろうぜ。この体じゃ風呂にも行けないだろ」
「そうだな。そうするべきだ。ティア、立てるか」
「ラシェル様、私は自分で立てますので!」
「だから無理すんなって」
アベルがティアの手を引いて、無理やり立たせた。反動でアベルの胸の中に倒れ込む。
「無理してばっかだから過呼吸になっちまうんだろうが。だから落ち着け、な?」
「よ、余計なお世話です!」
ティアはアベルを突き飛ばした。アベルは無抵抗に倒れた。
「ご、ごめんなさい!」
「ティア……今はそういうツッコミじゃないんだ……今は……」
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