抑うつの夢

小鳥 薊

眠りたくても眠れない。

 昨年の十月、寒さへの耐性のコントロールが思うようにいかずに只でさえ閉塞的な心持ちの私が、私生活と仕事の両方面から疲弊し鬱を患った。

 詳しい経緯についてここでは書かないが、自分はどうしてこうなったのか、直中の私には皆目見当もつかなかったし、考えられる状況でもなかった。

 とにかく色々なことに疲れていた。重篤な風邪にも同時に罹った。


 体が只只、寒くて、硬くて重くて、錆び付いていた。誰の声も喧騒や不協和音のように響き、それが目眩や頭痛を酷くさせるのだから、誰とも会いたくないし話したくない。


 何もしたくなかったのだが、仕事に就いている身として、社会的な立場を守るために私は専門の医者に掛かる必要があった。

 そのときは、それが私にとって必要なことなのかもわからなかったが、のでクリニックへ掛かったのだ。


 医者へどう説明しようか事前に考えて言ったはずなのに、ふいの質問の意図が理解できずちんぷんかんぷんな返答をしてしまったことがショックで、私はこのとき初めて見ず知らずのオジサンの前で嗚咽しながら泣くという経験をした。

 このときの私は、脳内で回想されていたある記憶、つまり小学生のときに教師に当てられた問題を正答できなかったときの場面とシンクロしていて、パニックに陥った。私のミスが、クラス中に晒された……あのときに私が感じた気持ち。


 医者にとっては日常茶飯事なことらしく、彼は終始冷静であった。これは抑うつ状態に見られる思考の制止という症状であると説明してくれた。



 医者から処方された薬と、「何もしない」「何も考えない」「とにかくゆっくり休む」ことを言われるままに実践した。それ以外にすることができなかったのだが。


 正直、私は薬を飲んだから眠れるようになったのか、会社に行かなくて良くなったから眠れるようになったのか、は分からない。どちらでもあるのかもしれない。


 処方薬は経過の中で何回か変わったのだが、ここでは床に就く前に処方された薬についての話をする。

 私の症状は、抑うつ状態の中でも軽度な方らしく、処方された薬の量も種類も作用は緩やかなものだということを最初に説明された上で、まず「デパス」という薬が処方されたのだ。


 デパスを飲み始めた当初の私は、久々に夢も見ずに泥のように眠った。

 けれどもそれも少し経って少しずつ効かなくなってきたのか、夜中に数回起きてしまうようになっていった。そして覚醒前後に見る夢はやたらとリアルで何だかイヤアな夢である。

 職場が舞台で、ホラー映画に出てくるような幽霊に襲われたり、出口のない迷路から出られなかったり、それから自分が死ぬ夢、他人が死ぬのに助けられない夢、出来頃に逆らおうとしてもできなくて苦しい夢ばかり見るので、だんだん眠ることに疲れ、嫌になった。


 そのことを医者へ相談すると、「デパス」から「リフレックス」という薬へ変更された。


 この、リフレックスへ変えた日に見た夢についての印象は今でも鮮明に残っていて、笑える。なんとなく夢への抵抗があったことと、薬が強すぎたらどうしようという不安が如実に反影された夢を見た。

 私は夢の中でどういうわけか四肢の自由を奪われていたのだ。そしてそれがを盛られたからと疑っていない私は、夢の中で何度も何度も繰り返し吐いた。嘔吐した後の胃液の苦さが実際に喉に感じられ、実にイヤな気分だった。

 少し話は逸れるが、人によって色のない夢しか見ない人や、夢に匂いや味がない人もいるという話を聞いた。私は、夢を見ているときにモノクロとか無味無臭をあえて感じたことはなく、血の味や妙にリアルだったりさっきの、胃液の味だったりが目覚めた後にも鮮明に思い出されるタイプの人間である。

 この夜に見た夢のはっきりした内容はもう覚えていないのだが、私はこの日目覚めたとき、口から涎を垂らしていた。お恥ずかしい体験なのだが、きっと夢の中で「この毒を吐き出さなければ……」という思いに駆られての行動なのか、肉体の方の私も必死こいていたのだろう……。


 枕を涙で濡らすならまだしも、涎で濡らすのは小さな子供か病気の大人だ。

 病気の大人。


 いずれにせよ、デパスは私を安らかな夢へと連れて行ってはくれなかった。そして私はこのリフレックスをまだ信用していない。


 内服から数日はやはり飲む前に少し勇気が要った。

 しかしこのリフレックスを飲み始めてから私が見る夢が劇的に変わった。それも良い方向に、である。

 夢は想像力だ。

 思考が柔軟であれば空だって飛べるし好きな人とも会える。逆に硬いと実に面白くないし時に夢によって首を絞められる。

 もちろん、これは私の場合の話である。

 ひとえにリフレックスが私に与えてくれた精神状態と夢は、幸福だった。

 具体的にどんな夢を見たのか……夢の暴露は恥ずかしいものである。よく、願望の表れとか言われているので。

 まあ、私の欲求が、エンターテイメント性を含んで読み物としても面白い展開なので、朝起きてすぐに夢日記に書き留めておけば、そのまま小説が書けそうだと思った。

 実際には、夢日記を実施する意欲はまだ湧いてこなかったので、数ヶ月経ってしまった今はほとんど説明しにくいほど断片的な記憶である。


 そんな幸せな毎日は突如として私の怠慢により終わりを告げ、そして今は決して戻ってこないのだ。


 働き始めの忙しさから、クリニックへの受診を忘れてしまったのだ。

 クリニックがそれだけ私にとって遠い存在になったということで喜ばしいことなんだろうか。しかし些かの不安が現実となり、私はまた再び眠れなくなった。浅い睡眠が見せる夢もこれっぽっちも楽しくない。それどころか、生温い悪夢だった。

 これも離脱症状になるのだろうか。肩凝りが悪化し、始終眠たくて疲れている。眠ろうとするとどんどん目が冴え、日中は反対に頭のサイズが一回り大きくなったような感じだ。

 知覚はある意味では鈍く、またある意味では敏感すぎて、子どもの笑い声にも悩まされ、本当にもう疲れてしまったのだ。


 薬をもらいに行かなくちゃ。でも日に日にどんどん遠のき重くなる足。私は一刻も早く離脱症状から脱出しなくてはならなかった。


 毎日の夢で、私は周りからどんなに努力しても認められない。登場する人物は皆身勝手で私には情も興味もないことを夢を通して感じる夢だ。

 なんだか虚しい。

 リフレックスの夢は瑞々しかった。私は夢の中で誰か可愛い女の子と思い切り空を飛んだり、元カレとよりを戻そうと奔走したり、大きな家で毎日を過ごし、娘と旅に出たりしていた。内容は陳腐かもしれないが生き生きしていた。場面場面での私の選択や感情の移り変わりは、情緒があって我ながら素敵だった。


 どちらの夢を見る自分も自分なのに不思議な夜だ。

 目を閉じ今夜はどんな夢を見るのだろう。そもそも寝れるのかな。

 温度調整の難しい体と季節の擦り合わせ。

 眠らない上の住人の足音。

 娘の寝息。


 哀しい夢を見たいんじゃない。

 ただぐっすりと眠りたい。

 それから目覚めて少しだけ気持ちのよい朝が、私に再び訪れることを、そして祝福も接吻もいらないから、せめて夜の帳の抱擁を、私は願って今夜も床に臨む。

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