第9話 超新星と狐狗狸

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」


 コーヒーを飲み終えると、私はせめて洗い物をさせてくれと頼み込んだ。気にしなくていいと言われたのだが、私としては借りを作るのは御免だった。最終的に修二が折れた。カップをシンクに運んだ時に、私はある違和感に気がついた。


 台所周りに物がなさ過ぎた。あったのはスポンジや洗剤などの洗浄用具と、洗った食器を仮置きする水切りだけだった。

 カップ洗いをサッと済ませ、私は修二に声をかけた。


「ちょっとキッチンを見てもいいか?」

「一回百円ねー」

 私は無視した。


 早速キッチン台の引き出しを開けてみた。え?と声がもれた。

 空っぽだった。私の部屋ではここに箸やスプーンなどのカトラリー類を入れている。

 隣の両開きの収納を開いた。私が鍋やフライパンなどを収納しているスペースだ。そこにはまたしても何も入っていなかった。


 冷蔵庫に目をやった。新品のようだった。それほど大型なものではなかったが、一人暮らしならこれくらいで充分だろう。私の部屋にも同じような冷蔵庫があったので、そう納得した。

 扉を開けると頭がくらっとした。木綿豆腐と絹豆腐が一丁づつ入っているだけだった。まあ昨日越してきたばかりだし、これは仕方ないのかもしれない。まだ他の場所に食材があるのだろう、と考えた。


 しかしその後も収納や棚を確認したが、同じように虚無空間が広がっているばかりだった。その度に私はへ?とか、は?のような見ていてつまらなくなるくらい似たリアクションを繰り返した。

 まさかな、とありえない考えを振り払おうとした。だがどうしても聞いておかなければならない疑問が浮かんできた。

 ずかずかと居間へ戻り、自分の座布団にドスンと正座した。私は腕を組んで険しい顔を向けた。修二が何事かとこちらを見ていた。


「おい、コーヒー男」

「どうした、コーヒー無知女」

「夕食はどうするつもりだ」

「え?どうって」

 修二が不思議そうに言った。


「夜何を食べるつもりなのかと聞いている」

「俺のオカンか、お前は」

「それはもういい。早く答えろ」


 修二は渋々と鞄からある物を取り出して卓袱台に乗せた。私は一瞥して言った。

「なんだこれは」

「えっ、純さん、頭大丈夫ですか。ここに『あんパン』って書いてあるじゃないですか」

 

 修二はパッケージのあんパンの文字を示して続けた。

「日本語読めなかったんですか」


 落ち着け。

 こんなことでいちいち怒ってたらやってられない。


「安心しろ、私は日本語が読める」

「あっ、じゃあ『あんパン』を知らないんですね。あんパンっていうのは、餡子が中に入っているパンなんです!餡子は小豆を煮詰めて作る甘味で…」

「…あんパンの存在も知っている」

 心を鎮めて死ぬほど無駄な解説を遮った。


「あんパンだけか」

「え?」

「この他に何か食べる予定はないのか」

「これだけだけど」


 私は深呼吸を繰り返した。まだだ、まだ我慢しろ、まだキレてはいけない。修二は私のおかしな様子をまだ不思議そうに見返してくる。


「…たまたまなんだよな」

「え?」

「今日の夕食が!あんパン一個だけなのは!たまたまなんだよな!」

「いや、最近三食ずっとこんな感じ」


 頭の中でブチッと何かが切れる音がした。

「ふざけるな!!」


 堪えきれず、卓袱台にドゴォンと両拳を叩きつけた。卓上にあったあんパンが少し跳ねた。修二はキョトンとしていた。私はものすごい剣幕で迫った。

「もっと肉とか魚とか野菜とか、バランスよく食え!」

「いや、お茶とかも飲んでるけど」

「飲み物を食事に数えるな!」

「純さん、そんなに怒ったらお体に障りますよ」

「お前の食生活の方が遙かに体に障る!」


 なんてやつだ。

 常識がないとは思っていたが、ここまでとは。

 そんな食生活を続けていては体調を崩すに決まっている。


 私は今一度深呼吸して、心を落ち着けた。冷静になれ、冷静に。何か事情があるのかもしれない。

 とにかく、これから改善させればいいのだ。


「出せ」

「や、やっぱり喝上げですか」

「頼むからこれ以上私を怒らせるな」


 深呼吸。

 確かに言葉が足りなかった気もする、落ち着け。


「調理器具だ。キッチンが空っぽだったぞ」

 私は目を閉じてこめかみに手をあてて言った。

「昨日引っ越してきたんだったな。荷解きが終わっていないのか」

 目を開いてキョロキョロと部屋を見回した。

「どこに隠してる。簡単な料理なら私も手伝ってやるから」


 ふと、しばらく私ばかり喋っていることに気付いた。

 何でこいつは黙っている?

 私は修二に視線を向けた。

 修二が口を開いた。


「もってない」

「は?」

「調理器具、もってない」


 絶句した。

 何回目なんだ、このパターン。


 もう爆発する燃料なんて、私の中には残っていないはずだったのだが。私は本日最大の大爆発を引き起こした。


 私は修二の胸ぐらを乱暴に掴んでガクガクと揺さぶった。

「お前ーっ!!」

 私はすさまじい怒気を込めて叫んだ。

「一人暮らしを始めるのに、調理器具を全く用意していないなどあり得ん!!」

「お、落ち着け、純」

「百歩譲って、いや千歩、いや万歩譲って鍋とか包丁はいいとして!箸や皿もないのか!?」

「は、はい」

「あ、あ、あり得ない!」


 怒髪天を衝いた。

 意味不明な感情がまた連鎖的に誘爆した。


「なんだお前は!?筆入れを持っていないで高校生活?調理器具を持っていないで一人暮らし?」


 私は滅茶苦茶に喋り倒した。


「大丈夫かお前!他に何か持っていない物はないか!?戸籍は持っているか、人権は持っているか?」

「こ、戸籍は大丈夫だ。役所で確認できるはず」

「いいや信用できない!お前アレか、本当に狐や狸が化けているんじゃないのか?」


 体を密着させてさらに激しく揺さぶった。


「魑魅魍魎の類いか!?人間社会でやっていく自信はあるのか!?」


 まずい、頭がおかしくなりそうだ。


「大人しく山に帰った方がいいんじゃないか!?薄汚い人間どもに捕まったら一生実験され尽くすぞ!」


 そこまで言って、わけがわからなくなって体に力が入らなくなった。私は頭が熱に支配されて、その場にくずおれた。


「私は…お前に…そんな一生を送って欲しくはない」


 何を言っているんだ、私は。

 混乱の極みであった。

 ほんの少し涙ぐみそうになってしまった。

 泣き虫か、私は。


 やや間があって、修二が私の頭をくしゃりとなでた。

「やっぱりお前は面白いやつだ」

 修二が私の髪に顔を突っ込んで、鼻をクンと鳴らした。


 久しぶりの変態行為も今は許してやろう、という気になった。

 恥ずかしかったが。

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