第7話 宇宙生物と哲学者
私は自室のベッドに鞄と竹刀を放った。少々乱暴だったか、とも思ったが今はそれどころではなかった。すぐにきびすを返した。
部屋を飛び出る前に少し思い立って、私は洗面所の鏡の前に立った。髪や制服に乱れがないかチェックしてみた。
一応、一応だから。
誰に対しての言い訳なのか、心の中で繰り返し、私はため息をついた。これでは私が意識しているようではないか。何に対する意識だ、誰に対する意識だ。馬鹿馬鹿しい。よくわからない気持ちを放り捨てて、今度こそ部屋を出た。
101号室の前に立ち、少し緊張しながらインターホンを押した。部屋の外にいても小さくピンポーンと聞こえた。5秒ほど待ったが家主が出てくることもなく、なんの物音もしなかった。もう一度インターホンを押したが結果は同じだった。
部屋にいろと言ったはずだが。まさかこの少々の時間で出かけてしまったのか。どうしようかと迷ったが、意を決してドアノブをひねると、鍵は開いていた。ドアを少し開けると、あまり馴染みのない爽やかな香りが漂ってきた。ハッカなどのハーブ類が思い出された。
だがもっと複雑で、しかし決して不快ではない香りだった。私はおずおずと片目で部屋をのぞき込み、声をかけた。
「お、おい」
返事はなく、入り口から見える範囲に修二はいないようだった。再びどうしようか迷った。
はしたないだろうか。だが相手は修二だ。ここまで来て何を尻込みすることがあるだろうか。
私は決心した。
「お、お邪魔します」
一応の断りを入れ、私は部屋に踏み込んだ。
部屋の構造は私の部屋と同じだった。まあ当然か。
玄関から入ると左に台所があり、右にトイレとバスルームがある。奥へ進むと6畳ほどの居間と寝室を兼ねた空間が広がっている。何の変哲もない普通の1Kの部屋だ。学生の一人暮らしなんてこんなものだろう。
恐る恐る奥へ進んだ。修二は隅に位置したベッドに寝転がっていた。先ほど別れてから1分少々しか経っていないはずだが。
演技だろうか。
私は少し声を大きくした。
「おい、修二」
「…んう、もう食えない…」
「そういう定番なのはいい!起きろ!」
修二はしばらくうーとかあーとか唸っていたが、やがてむくりと起き上がった。しばらくぼーっとこちらを見ていた。状況を理解していったようだった。本当に寝かけていたのか。
器用なやつだ。
修二が不意に目つきを鋭くして言った。
「男の部屋に一人で上がり込んでくるなんて、警戒心が足りないんじゃないのか」
私はぐっ、と言葉に詰まった。
「何をされても文句は言えないのです!」
た、確かに。
私は己の未熟さ、無知さを恥じた。
一人暮らしを始める際に、花蓮に心配されたことを思い出した。彼女が言うには、私はガードが甘いそうなのだ。
「そんなことはないと思うが」
「いーや、甘々のゆるゆるです」
いくら反論しても決まってこう言われた。
「無意識だろうと、ノーガード戦法は結果的に相手を挑発しちゃうんだよ」
純はそういうことに鈍感だから、と。今ひとつピンときていなかった。
こういうことだったのかもしれない、と身構えた。すると修二はニヤリとして「安心するのです」と言った。
「実は俺は新種のエイリアンで、人間の雄に擬態しているのだ。人間の雌に興味はない」
「NASAに幽閉されて一生を終えてしまえ」
部屋をサッと見回した。ベッド、卓袱台、テレビなどは普通に持っているようだった。修二はベッドから立ち上がり、部屋の隅にある棚の前に立ってこう尋ねてきた。
「飲めないものはあるか?」
「いや、特に」
短い問答だった。
その棚は異様だった。
何に使うのかわからない器具や、何か怪しい漢方の材料のような瓶詰めなどを満載していた。私が理解できたのは色とりどりに充実したカップ、湯飲み茶碗、急須くらいだった。
「修二、これらは?」
「法には触れていない」
「…入手経路は?」
「…法には触れていない」
一気に胡散臭くなってきた。
修二は手慣れた様子でよくわからない器具に豆のようなものを入れていた。
「見ていていいか?」
「As you like」
そう言うと修二は器具上部のハンドルのようなものをゴリゴリと回し始めた。私が不思議そうに見つめていると、修二も不思議そうに声を発した。
「コーヒーミルだ」
「コーヒーミル?」
「なんだ、今日日の高校生はコーヒーも飲まんのか」
ふふんと馬鹿にされて少しムッとした。
コーヒーミルの中に、豆をとても細かく刻んだ粉のようなものが出来上がっていた。コーヒーの香りが広がった。
修二はこれまたよくわからない器具に、紙のようなものをセットした。紙の中に先ほどの粉を入れ始めた。私は「え?」と声を上げた。
「その粉をお湯に溶かして飲むんじゃないのか?」
私の疑問に、修二はやれやれといった調子で答えた。
「ソクラテス曰く『無知は罪なり』で御座いますよ、純お嬢さま」
私はまたムッとした。
いちいち腹立たしいやつだ。
私はせいぜいインスタントコーヒーくらいしか飲んだことがなかった。
悔しいが私のコーヒー知識なんて赤子同然。
本格的なコーヒーの材料や作り方なんて知るよしもなかった。
いつの間にか小型の電子ケトルでお湯が作られていた。修二は棚から二つのカップを取り出して、そこにお湯を注いで放置した。
「これはどういう…?」
「後でわかる」
そしてようやくコーヒーの粉にお湯を注ぎ始めた。再びコーヒーの香りが広がった。
「最初に蒸らすのがポイントだ」
そう言われたが、私にはよくわからなかった。修二は何度かに分けてお湯を注いでいた。コーヒーが下の器具に落とされていった。
カップのお湯をシンクに捨てた。
「カップを熱々にしておいたんだ」
「そこまで凝るのか」
「凝る」
ははあ、と私は素直に感心した。修二のこだわりはなぜだか好感が持てた。
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