3章2話 へスぺリデスのシールドベル

「列が、長い」

フレイがへスぺリデスのシールド塔の階段で嘆いた。

へスぺリデスのシールドベルを有する塔の階段で。フレイたちの前にも後ろにも人がみっちりと並んでいる。そして階段を上る人の列はごくゆっくりと時たま動くだけでなかなか塔の頂上へはたどり着かない。

「高い塔ですから。上るのに時間がかかるのは当然です。でも不思議な建物だな」

アルトが明るく言う。アルトは物珍しそうに塔の壁を見ている。ただの壁ではない。そのはすりガラスのように半透明だ。

外の光景がぼんやり見える。

壁だけではない。上っている階段も、天井もすべてが透明なガラスのような素材でできている。

へスぺリデスのシールドベルについてはまだわかっていないことが多い。その素材もガラスのようにも水晶のようにも見えるがほかに類を見ない建物だ。

「一説には妖精族が建てたのだともいわれている」

シオンが都市伝説を口にする。

「とりあえず、何かウィル・オ・ウィスプの手掛かりはないのか?」

フレイが時間の無駄を恐れて口にする。そしてその最悪の予感は当たった。

「いやー。全然何もわからないな」

シオンが明るく言い放つ。

フレイは無言で黙り込む。そして遠い目で自分たちから永遠続くようにも見える後ろと前の列を見る。

魔法院と違い、へスぺリデスのシールドベルの塔は日中は観光客にも開放されている。有名な観光スポットだ。階段を上っているほかの人たちには観光客らしきものが多く見られる。

そしてウィル・オ・ウィスプが出現した、ということでさらにはハンターたちも情報収集に来ている。列に並ぶ人たちの中にはハンターのバッジを付けた人たちも見受けられる。

つまりはいつも以上に混んでいるのだ。

そしてこの塔では登り用の階段と降りるようの階段が別にある。一度中に入ってしまえば、一方通行で引き返すことができない。

そして、鐘がさがる頂上で、二十人の人数制限付きで十分ずつの滞在時間が与えられる。つまりはその分列が動くのがゆっくりだ。

そしてフレイの飛行魔法を使うこともできないほど狭い階段だ。逃げ道をふさがれたフレイは絶望した表情である。

なお、夜は魔力が塔に満ちるために人体に危険が及ぶ可能性がある。夜間は封鎖されている。

「これなら夜に来たほうがましだった…」

列に待つより身の危険を選ぶほどにフレイは絶望的な気持ちらしい。

観光客に混じるハンターたちも何も手がかりを得られずに退屈して別のことをしている者も多い。

「この列、頂上に行くのに一体何時間かかるんだ…」

「とりあえず、待つしかなさそうだな」

シオンが異空間収納のウェストポーチから小説を取り出す。時間をつぶす気らしい。

アルトはゲーム機で遊び始めた。

趣味を時間の無駄だと嫌うフレイが一番時間を無駄にせざるを得ないのは皮肉か。

「あの、あなたがたはハンターさんたちなんですか?」

すぐ後ろに並んでいる男性が思い切った様子でシオンたちに話しかけてくる。

背中に大きなカバンを背負った男性だ。長い登りの列に並んでいるのに、そのかばんは邪魔で重そうだ。だがここまで持ってくるのにはそれなりに理由があるのだろうとシオンは考えた。

「そうです。この二人はハンターなんです」

シオンたちの代わりにアルトが口を開く。物おじしないアルトらしい明るさだ。

「いいなあハンター!クラウドナインらしいな!」

男性はぱっと明るく感動した顔になる。どことなくのんびりとした青年だ。なんとなくだが、田舎の出身なのだろう、と初対面の人にも思わせる。のびのびと育った植物のような穏やかな雰囲気を持っているからだろう。

「ここは魔法院の隣だ。ハンターなんてごまんといるだろう」

フレイが理解できないという顔をする。

「もしかして、クラウドナインに観光に来たんですか?」

アルトが聞く。ハンターはクラウドナインなどの魔都以外ではそこまでよく聞く職業ではない。だからクラウドナイン外から来たのかもしれないと推測したのだ。それに青年のまとう雰囲気がそれを裏付けている気がした。

「実は今日クラウドナインに来たんだ。でも俺は観光客ではない。このクラウドナインに住むつもりなんだ」

男性が勢いこんで言う。真剣な覚悟を持っているように見える。

「そうなんですね。俺も少し前にクラウドナインに来たばかりなんです。前に住んでいたところはごく普通の田舎だったから、大都市に興奮する気持ちはわかります」

アルトが理解を示す。

「そうだよな。いいよな、魔都、クラウドナイン。俺もいずれここで一旗揚げて見せると決めているんだ」

「何か、目標があるんですか?」

「俺は、ミュージシャンになりたいんだ」

男性が胸を張って言う。

「そう簡単にはいかないだろう」

フレイが冷たく聞こえる言葉を放つ。本人は本当のことを言っているだけのつもりだが、初めての人は傷つくことが多い。

「フレイ、その言い方はないだろう」

シオンがフレイをたしなめる。

「だが事実だ。今はデータスフィアが発達している。本当に才能があるなら、そこで有名になったほうが効率がいい。わざわざ家賃と生活費の高いクラウドナインにくる必要はない」

フレイがいつものように正直に言う。

「俺も、そうかもしれないと思う。でも約束したんだ。ここで成功してみせるって。それに逃げ道をふさぐのもいい手だと思ったんだ。人間のっぴきならない状況になれば、なんとかなるかなと思って。あまい、考えなのは分かっている、けどな」

「いいですね。夢を追いかけるのは悪いことではないと思います。誰と約束したんですか?」

アルトが推測する。

「実は俺は音痴なんだ。でも曲を作るのは得意で。歌ってくれた奴がいた。彼女が俺のボーカルだった。彼女との約束だったんだ」

男性が悲しそうな顔になる。その表情からアルトはその女性は彼の恋人で、彼の元を去ったのかもしれないと思った。

「別れた彼女さんですか?」

アルトが気軽に聞く。

「いや…。もう亡くなってしまったんだ」

男性が言い。アルトは良くない質問だったかもしれないと後悔した。

「そうなんですね…」

「だから、そのためにこの塔に上ったんだ。あいつに聞いてほしい曲があるからな」

そんなどんよりとしてしまった空気を吹き飛ばすようにジャンが笑って言う。

「この塔の都市伝説のことですね」

シオンが理解してうなずく。

「ええっと確か。クラウドナイン、とは空の一番高いところ、あるいは天国のことを指しているから。へスぺリデスの塔で願いを叫べば、天国にいる人に声が届くっていうやつですね」

アルトがガイドブックに書かれていたことを思い起こす。

アルトには願いを聞いてくれそうな死者はいない。だからそこまで興味は持たなかった。

「魂は輪廻するか、あるいは死後消滅するのか。どちらかだと今の魔法科学では主流な考え方だろう。天国なんてあるわけがない」

フレイが辛辣に言い放つ。

「精霊が魔物化してから、精霊信仰はすたれたけど。昔はこう伝えられていたんだ。人の魂は一度冥府の精霊の城に招かれる。そこは輪廻する前の魂が送られる場所。そこで生前の行いをはかられ、良い行いをしたものにはいい生活が約束され、悪いことをした魂は下働きとして使われる。といわれていたんだ。その天の国冥府は空にあると言われていたんだ」

「ばかばかしい。それに今は精霊はすべて魔物化している。冥府の精霊とやらも消滅しているか、魔物化しているだろう」

フレイが反論する。

「フレイ!悪いな俺の相棒が。こいつ、列にならばされてカリカリしているんだ」

シオンがフレイの代わりに謝る。フレイはというと自分が感情的になっていることに気が付き、不服そうだが黙った。

「別に構わない。そう正直に話されるとカナリーを思い出すしな」

「これを笑って許せるとは…。その、フレイみたいに考えたことを言ってしまう人だったのか?」

シオンがフレイににらまれつつも質問する。フレイの辛辣さに勝る人なのかもしれない。

「そうだな。思ったことはすっぱり口にするタイプだった。でもそこも含めて好きだった」

「そう思われている女性は幸せだな」

「初対面で会ったときなんか、俺が音痴だってはっきりといわれてしまったものさ」

男性が思い出し笑いをする。そんなことを言われたら傷つきそうなのに、楽しいことを思い出しているような顔だ。

「そんなに音痴なんですか。でもなんだかあなたは嬉しそうですね」

「それだけ言われたわけではないんだ。お前は音痴だ。だけど曲はいいと思うと言ってくれた。良いことは良いときちんという人だったんだ」

「どんななれそめなのか想像がつかないな」

「俺は自分の曲を作るのを誰にも見られたくなくて森のかなり深いところで作曲と歌う練習をしていたんだ。村の人たちに知られたくなくてさ。田舎は狭いだろう?だから人間関係も密で。それはいいことでもあるんだけど、時々窮屈になる。俺にとって音楽は息抜きに最適なものだったんだ」

「森の奥に女性がいたんですか?」

「そうだ。俺もびっくりした。音楽に夢中だから足音も聞こえなくて。突然近くから声がしたんだ。彼女は、お前は歌うのが壊滅的に下手だ。だが曲はなかなかいいねって。さもそこにいるのが当たり前みたいに。見も知らぬ女性から言われたんだから困惑する。なんでここにいるんだ?と聞いたら。そりゃ私のうちがこの近くだからだよ。と答えられてさらに面食らった。こんな森の奥深くに家があるなんて知らないからな」

「それは、知らないだけで家があっただけなのでは?」

「だがそんな山奥だ。食料の買い出しとかするのに、ふつうは最寄りの村に行くものだろう?狭い村だから、誰がどこに住んでいるとか。だれがどこに越してきたとか。情報はすぐに回るものなんだ。だが俺はその女性とまったく面識がなかった」

「まるで森に住む魔女みたいですね」

「俺もそう思った。でも失礼だろうなと思って、俺が音痴だというなら、あなたならうまく歌えるのか?と聞いた。すると彼女は笑ってから、歌をくちずさんだ。悔しいことにそれが思ったよりいい声で。俺は自分の作った曲に聞きほれることになった。なんでそんな風に歌えるんだと聞いたら。音楽を聴くのは数少ない娯楽だからさ。と答えられた」

「それで、なぜその女性はそんなところに住んでいたんですか?」

アルトが気になって聞く。

「俺もそれはすごく気になった。彼女は美しい女性だったし。もしかして幽霊か精霊にでも会っているんじゃないかと思ったほどだ。彼女に思い切って聞いてみると。彼女はあっさり答えた。彼女は魔力アレルギーの患者だった」

「なるほど。確か無属性の魔力が周りにあると魂の流れ、魔力の流れが阻害されてしまうという病気でしたよね?」

アルトが深く納得する。

「そうだ。俺の歌が家にまで聞こえていたと文句を言われたのかと思った。俺は曲の練習にこの場所を使っていてもいいか?と彼女に聞いた。彼女は別にかまわないとすんなりうなずいた」

「彼女は時々俺の練習を見に来た。それで気が向けば俺の作った曲を歌ってくれた。それで俺は彼女に俺のボーカルになってほしいと頼み込んだ。彼女は、自分ではなくだれかもっと専門的に音楽を学んだ人を選んだほうがいいと言った。でも俺は彼女の声がいい、と何度も頼んだ。彼女はそれであきらめておれのボーカルになってくれた」

「恋人だったんですね」

アルトがそう推測する。

「いや、恋人ではなかった。それに結婚を申し込んで断られた」

男性が真顔で言う。アルトは同情すべきなのか否かに迷った。

「そうなんですか?なんだかのろけを聞いている気分になってきましたけど」

「彼女の遺言を読んだから。俺のことが嫌いなわけではなかったらしいと、あとから知った。かなり落ち込んだから、その時に言ってくれればよかったのに。と思った。でも率直なのに素直になれない彼女らしいとも思った」

「魔力アレルギーのせいで亡くなられたんですか?森の中に住んでいたのに?」

「魔力アレルギーは無属性の魔力に触れているとおこる。現代の魔具の規格は大体無属性のものだ。いくら人里離れても、無属性の魔具に触れずに生きることは難しい。そして根本的な治療法がないんだ」

「遺言状にあなたが好きだと書かれていたんですか?なら、なぜ恋人にならなかったんですか?」

「俺と結婚したら、お前は私のことを引きずって前に進もうとしないだろう。だから結婚は断った。でも私もお前が好きだったよ。お前の才能は本物だ。だからきっとほかのボーカルを見つけて、音楽の道を歩くべきだ。私はその障害にはなりたくない。どうか幸せになってくれ。と、そんなことが書かれていた」

「恋人でなくとも彼女にとってもあなたは大切な存在だったんですね」

「それで、俺はこのクラウドナインに来た。彼女は俺が俺の曲が広まればいいと願ったから」

「へスぺリデスの塔に来たのはカナリーさんに願いを聞いてもらうために?」

アルトが聞く。

「実は彼女を想って曲を作ったんだ。それをこの塔で歌いたい。亡き人への願いの声が届くなら。歌だって届くはずだ」

「そんなのは気休めに過ぎないと思うがな」

フレイがそっけなく言う。

「そうだな。これは俺の気休めなのかもしれない。でもいい曲ができたから聞かせてやりたかったんだ」

男性がひるむことなく言う。

「その背中のかばんはギターですか?」

アルトが興味を持って聞く。

「そうだ。正直重いしかさばるけどな」

男性が笑う。

「頂上に着くにはまだまだ時間がかかりそうですね」

「そうだな。つく頃には夕方になってそうだ。クラウドナインのほかの名所も回ってみたかったんだけどな」

「俺は遊覧飛行艇に乗ってきました。正規ではないですけどガイドさんがいて。クラウドナインの観光案内をしてくれたんです」

アルトが自慢する。

「いいな。遊覧飛行艇。俺も乗りたかったけど高いんだよな」

男性がため息をつく。

「良ければガイドさんの言っていた名所の説明をしますよ。俺自身もガイドブックはばっちり勉強してきましたし」

「いいのか?頼む」

アルトが言い。男性が目を輝かせる。

アルトと男性はクラウドナインの名所の話で盛り上がる。お互いに自己紹介までした。男性の名前はジャンというらしい。そしてシオンは読書をして。フレイ一人やることがなく黙って列が動くのを待った。



そして、たどり着いた、鐘楼の頂点。

ちょうどその時間は沈む夕日が差し込んでいる。へスぺリデスのシールドベルの塔はクリスタル・カナル沿いに建っている。そのため、周りの建物より低いが、西からの日差しが通るのだ。

透明な水晶の塔がオレンジかかった光を含むように宿している。まるで塔自体が輝いているかのよう。

「ちょうどいい時間についたな。待ったかいがあった」

シオンが言う。

「時間が無駄になっただけだ。こんな景観、魔法テレビ(ホロスクリーン)でいくらでも見れるだろう」

隣でフレイが憮然として言う。

「分かっていないな。体験を共有するのが重要なんだ」

「この窓にはシールドがかかっている…。ということは帰りもこの列に並ぶのか」

フレイがげんなりする。当然人が落ちないように鐘楼の四方は解放されていても透明なシールド魔法でおおわれている。

「行きは頂上で十分ずつの待ち時間があるから遅かったが、帰りはそれはないから少しは早いはずだ」

シオンがフレイのげんなりした顔を見て笑ってしまいながらも言う。

「カナリーにも見せてやりたかったな」

そんなやりとりをしているシオンとフレイをよそにジャンがしみじみと感動したように言う。

アルトたちが見ている間にも、多くの人が窓のように大きく開けた四方で、願い事を叫んでいる。

「願いを叫んだだけでかなうことはない」

フレイがいら立つ。

「そうかもな。でも、口にすることで引き寄せられる願いもある。願うことは、行動を始めるのに必要なことだからな」

シオンが肯定的に言う。

「俺も、行ってくる」

ジャンが言い、背負っていたカバンからギターを取り出す。

そして沈む夕日が見える場所に陣取り、ギターを鳴らす。人々の注目がそれに集まる。

さすがにここまでギターを運んで、曲まで歌う人はほかにはいない。

どんな曲なのだろうか?こんなところで歌うということは相当な自信があるのだろうか?

そんな好奇と期待の目が集まる。

自然と窓の外へ叫ぼうとしていた人もそれをやめてジャンが歌いだすのを待つ。

ジャンは慣れた手つきでギターをかき鳴らす。

歌いだす。

はっきり言うと、ジャンは音痴だった。自分で言った通りだ。

それでも精一杯歌うその曲は、よい曲のように感じられた。今は亡き人への思いであふれた歌。

そして歌い終わり、ジャンは会釈する。曲を聴いていた人たちが、ぱらぱらと拍手する。なんだそんなものか。と失望した顔になる人。下手でも思いはきっと伝わるぞ!と励ます人。ほほえましい目で見ている人もいる。反応はまちまちだが、ジャンの下手さのせいで曲の良さはあまり伝わらない。

「きっと、ボーカルを見つけてみせる!」

ジャンが天にも届けと、大声で叫ぶ。それはジャンがミュージシャンとして活躍するには死活問題であるとシオンたちは思った

「あの…」

一人の女性が前に進み出て、ジャンに声をかける。初対面の人に話しかけるのには勇気がいるのだろう。おずおずとしている。

「この曲か?これは自作の曲なんだ。曲はデータスフィアにアップしているから、聞いてみてくれ」

ジャンがその女性が曲に興味を持ってくれたのだろうと思い言う。

「いえ、あの、私。シンガーを目指しているんです!シンシア、と申します。今の曲、私に歌わせてもらえませんか?すっごく素敵な曲だと思います!」

シンシアが勇気を振り絞ってやけになったように大声で叫ぶように言った。

再びへスぺリデスの頂上を見て歩いている人たちの注目が集まる。

「本当か?それは奇遇だな。だが俺は楽譜を持ってきていないんだ」

「大丈夫です。曲を覚えるのは得意だから」

シンシアは緊張しているのだろう、顔を赤くしているがしっかりと答える。

「なら、俺のほうは構わない。一曲合わせてみよう」

ジャンが笑って承諾する。ジャンはここでひとを疑うような性格ではない。おおらかに笑ってシンシアの申し出を受け入れた。

そして曲が始まる。

シンシアは大きく息を吸って。ジャンと目を合わせる。

ジャンがギターを弾きだす。

シンシアの声が響く。さっきと同じ曲なのに、ずっと心に響く。すっと心の中にしみこんでくる曲だ。さっきの曲はこんな曲だったのか、と驚いた顔の人々。ジャンの時とはあまりに反応が違う。

そして曲が終わると、先ほどより大きな喝さいが響く。少し混じっていた、馬鹿にしたような視線もない。何人かは、ジャンに曲名を聞きにいったりもしている。

「すごいです。初めて合わせたとは思えない」

アルトが絶賛する。

「やはり自分が音痴だと実感するのは、つらいものがある」

「実は自覚があまりないんだな」

ジゃンが言い、シオンが苦笑する。

「あの、さっきの願い、聞いていました。私をあなたのボーカルにしてもらえませんか!」

シンシアが思い切って声をかける。

「実は今の曲は、俺の愛した人への別れの鎮魂歌だったんだ。俺は彼女との思い出を大切にしたい」

「別に、彼女になるわけじゃないんですから、ただのボーカルです」

シンシアはちょっと怒ったように言う。

「それも、そうだな」

「それに、わたし、バンドのメンバーとはもう、恋はしないって決めたんです!」

シンシアが怒ったように体を震わせる。内なる怒りを発散するように。

「シンシア?」

ジャンが戸惑う。何かまずいことを言ってしまったか。正直シンシアがバンドの歌い手になってくれるならうれしい。

「前にいた、バンドの仲間と付き合っていたんです。でも、当然のように破局して。それでその腹いせに私、シンガーをやめさせられたんです。気まずいからって、ひどくないですか!私は、もう、バンドメンバーと恋はしません!」

シンシアがここにいない誰かに憤る。

「お、おう。俺もカナリー以外の女性を好きになる気はないからな。ちょうどいい、のか?」

ジャンがシンシアが面白いので噴き出す。どうやら結構面白い仲間になるのかもしれない。カナリーとは違う。そういう関係を作れそうだった。

「それに、分かります。あなたの曲はその人への思いであふれていました。私、その気持ちに感動したんです」

シンシアは怒りを収めて言った。

「ありがとう。こんな偶然にこんな素晴らしい歌い手に出会えたのも、彼女の導きなのかもしれないな」

ジャンがシンシアの申し出を承諾する。

「これ、私の連絡先です」「分かった。俺のほうから返信する」

ジャンとシンシアは連絡先を交換した。

「じゃあ、願いが叶ってしまったから、違う願いを言うべきだな」

ジャンがにやりと不敵に笑って言いだす。

「願いがかなったのに?欲張りですね」

アルトが言う。

「いや、これは願い、ではなくて、カナリーへの宣言であり、願いをかなえてくれたお礼でもある」

ジャンは一度大きく息を吸ってから、叫ぶ。

「地図のモノリスのホロスクリーンエクスビジョンに曲が流れる、そんなバンドになってやる――――!見てろよ!カナリー!」

ジャンの叫びに、新たなボーカルとなったシンシアが笑顔になる。

そしてここに、新しいバンドが結成された。

彼らが活躍するのか否か。それは定かではない。だがジャンたちは未来に向かって歩き出す。願いを持って、前へ。カナリーの願いも背負って先へ進むのだ。

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