第3話
ある日、お師匠様は珍しく気ままに街へ出てくると告げて家を出ていった。人と関わるのが嫌いなお師匠様が事前の準備も何もなく街に出ていくというのは極めて珍しいことだった。わたしの知る限り、この数年間で一度あったかどうかという話である。
留守番を任されたわたしは、当初こそいつもの通り掃除や洗濯を進めていたのだが、その実あの『毒』のことが気になって仕方がなかった。自分の中の欲望に気が付いてからというもの、『毒』を飲んでみたいという欲求は日に日に高まりつつあった。
今日ならば、あるいはお師匠様にバレずにあれが飲めるかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。お師匠様が家に帰ってくるのは夕方遅くだという。今はまだ太陽が南中する前であり、時間はたっぷりとあった。
ふと気が付くと、わたしはいつの間にかお師匠様の私室の前に立っていた。
このドアを開けたら、戻れなくなる。戻るべきだ。
このドアを開ければ、あれが飲める。進むべきだ。
二つの気持ちが同時にわたしの心に浮かび、しかし私が従ったのは結局後者の気持ちだった。
わたしはドアノブに手を掛けた。カギはかかっていない。軽く押すとそのまま開き、わたしは中へと歩みを進めた。
お師匠様は自室の掃除だけはわたし任せにせず自分でやっていたため、中に入るのは初めてだったが、師匠の部屋はとてもきれいに整頓されていて、毎日家全体を掃除していた私から見てもすばらしい部屋だった。
そして、そんな部屋の中に香る甘い匂い。
あの『毒』の香りだった。
わたしは香りを頼りにお師匠様の部屋の中にあった棚を丁寧に漁る。さしたる時間もかからずにわたしは『毒』の入った瓶を見つけることが出来た。
はじめてめてじっくり見る『毒』は緑とも青ともつかない、変わった色合いをしていた。そして、嗅げばかぐほどに甘く魅力的に感じられる香り。入っている瓶の口に鼻を寄せてみるだけでもわたしはうっとりとしてしまう。
わたしは逸る気持ちを押さえながら、瓶を持ってお師匠様の部屋を出るとキッチンへと足を運び、いつも使っているコップを手に取った。
そして、ゆっくりとコップに瓶の中の『毒』を注いでいった。
それにつれて、甘い香りもどんどん強くなっていく。
わたしはコップを手に取って、しかし、しばらく逡巡した。別にお師匠様の言っていた言葉を思い出したわけではない。ただ、直感でこれを飲んだらもう今の生活に戻れなくなるような、そんな気がしたのだ。
お師匠様との何年間かの生活の記憶がゆっくりと頭の中を走っていく。叔父夫婦の下での虐げられてきた記憶とはまるで違う、暖かな記憶。
(それでも……わたしは……)
わたしは誰もいないキッチンでひとり首を左右に振ると、『毒』の入ったコップを持って、中身を一気にあおった。
「やっぱり飲んだね、あれを」
「え?」
お師匠様の声が響いてきて、わたしはふっと我に返る。
気が付くとわたしは自室のベッドの上に横たわっていた。お師匠様はその横で椅子に腰かけて苦笑いを浮かべている。
「……お、お師匠様、申し訳ありません! わたし……」
わたしは慌ててガバッと起き上がりお師匠様に謝罪の言葉をかけようとしたが、お師匠様がそれを手で制した。
「別に構わないさ。いつかはこうなるだろうと思っていたからね」
そういうお師匠様の顔はどこか寂しげだった。
「お師匠様には、わたしがこうすることが分かっていたんですか?」
「分かっていたさ。昔の私もそうだったからね」
そう言って、お師匠様は静かに『毒』と言っていたものの本当の正体について教えてくれた。
あの『毒』というのは、代々の魔女に連綿と受け継がれてきた秘薬であり、あれを飲んだ人間は徐々に肉体の成長(老化)が止まり不老不死に近い存在となり、また様々な魔法を行使できるようになるのだという。
「リスクみたいなものは、あるんですか?」
わたしは気になった点を率直にお師匠様に聞いてみた。
「もちろんあるさ。まず、これには常習性があってね。一度飲んでしまうと必ずもう一杯、もう一杯と次が飲みたくなる衝動に駆られるようになる。私が毎日毎日飲んでいたのもそのせいさ。私の師匠もそうだった」
「他には何が?」
「厳密にいえばこれは不老不死をもたらす薬じゃない。飲んでいる間だけ肉体の老いを止めているだけだ。だから、飲むのを止めればすぐに老いは始まるし、そうでなくても薬の効力を超える傷や病を背負ってしまえば簡単に死んでしまう」
「そんな……」
「一度飲むと止められなくなり、しかも効力に限りがある薬なのに、それにすがらざるを得ない仮初の存在、それが魔女の正体なのさ」
お師匠様の語る事実にわたしは強いショックを受けた。
「じゃ、じゃあ、わたしは……」
わたしは震える声でお師匠様に問いかけた。
「……それについては、まずあんたに謝らなければならない。あんたがここに来た時、虫の息だったのは覚えているね?」
お師匠様の言葉に、私はこくりとうなずく。
「あの時私はいろいろ手を尽くしたが、どうやってもあんたの命を繋ぎとめる手立てがなかった。万策尽きた私は最後の手段をとることにしたんだ」
お師匠様が言いたいことは、もうわたしには想像がついていた。
「まさか、それが……」
「あんたの想像の通り、あの薬を飲ませたのさ。勿論、それが何を意味するのかを知ったうえでね」
「じゃあ、わたしがあれを飲みたくて仕方なかったのは……」
「薬の副作用だね。一杯程度ならあるいは、と思わないこともなかったけれど、やっぱり駄目だったね。あの薬の作用は私が思っていたよりもずっとずっと強力だった」
お師匠様はそう言って肩を落とした。その姿は疲れ果て、年老いた老婆のそれを連想させた。
「わたしが魔女になるのは、あの日のあの瞬間から定まっていたことなんですね」
「そういうことになるね。すべては私の責任さ。煮るなり焼くなり好きにすればいい」
お師匠様は投げやりにそう言ったけれど、わたしにお師匠様の責任を問うつもりはこれっぽっちもなかった。色々あったけれど、わたしの命を助けて、今日まで育ててくれたのはお師匠様なのだ。
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