第3話

 夜中、ふと目が覚める。予感があった。

 ベッドから降りて視線をめぐらすと、月明かりの差し込む窓際に、クロが佇んでいる。

 金色の瞳が、私をじっと見ている。口には何かの花を加えているようだ。

 今のクロは私の日常生活における相棒ではなく、女神さまの伝言をもたらす聖なる存在だった。


「これを薬にして王妃に。彼女はもうすぐ病に倒れる。王妃がいま死ぬと王は立ち直れず、最終的には国が傾く。女神の慈悲を運んでくれ」


 加えていた花を落とすと、クロはそう告げた。

 私は短く「わかったわ」と言って、花を手に取る。


「それから。女神は君の願いに許可を出した。とりあえず百年、許すと言っている」


 私個人のお願いがあって、クロに聞いてみてもらうよう頼んでおいたことがあった。それに許しが出たらしい。


「私が言うのもなんだけど、甘くない?」

「百数十年も見守っていれば、情も湧くんだろう。人間は女神のことをやたら神格化して、感情が薄いみたいに思い込んでるが……元は人間だからな」

「え、うそ」


 そんなの、聞いたことがない。


「ものすごく昔の話だ。お前も何百年か生きれば、見習いくらいになれるかもしれない」

「結構です……」


 すごく怖いことを言われた気がするけど、今は忘れよう。

 女神さまにお礼の伝言を頼むと、クロはにゃあと鳴いた。




 この国は、本当に守護神である女神さまに守られている。信仰を失わなければ、願いは届く。そして、私は女神さまと国との橋渡し役だ。


 最初は馬鹿正直に王宮に出向いて、伝言だとか薬だとかを届けていた。しかし、いつの頃からか足は遠のき、今は手紙や第三者を使って王宮に伝わるようにしている。

 どうしても私が出向いたほうがいいときは、最低限の者にしか姿を見られないようにしていた。


 だって行くたびに、自分が人の理を外れたことを思い知らされる。

 同じ人間として接してくるものはいない。尊敬の眼差しを向けられるか、怯えた眼差しを向けられるか。そのどちらかであることに疲れてしまった。


 だから今、森の魔女を実際に目にしたことがある者はほぼいない。存在はよく知られているけど。


「みんな、あなたの姿を見たら驚くだろうな」


 馬車から城が見えたとき、彼はなかなか悪い顔をしていた。

 私もたぶん、同じ顔をしている。

 今日は王宮の舞踏会。彼が大勢の前で婚約破棄を叫ばれる予定の日だ。


「あなたが来たいって言ったときは驚いた」

「女神さまの使い走りをしなくちゃいけないの。だからついでに、あなたのこともフォローしようと思って」


 女神さまの威を借るわけだ。クロに話しても止められなかったから、この程度はお目こぼししてくれるらしい。


「始まったあとは、私に任せてね」

「悔しいけど、お願いする」


 私の力を借りたいと言いつつ、完全に任せきりになってしまうことを悔しがる。そういうところ、すごく似ていると思った。


 久しぶりの舞踏会は、最高に気分を高揚させた。ここまで興奮する出来事なんて、百年以上経験してない。

 舞踏会で敵と会う、ってシチュエーションに心が騒ぐ。隙を見せては負ける。失くしていたと思っていた闘争心に火がつくのがわかる。


 ここにいる誰よりも、気高く立派な令嬢を演じてやろうじゃないの。

 私が社交界にいたのは百年以上前だけど、マナー、振る舞いに置いて粗相をすることはない。準備はかんぺきだ。舞踏会に参加すると決まってから、私はいろんな手を使って今の社交界でのマナーを頭に叩き込んだ。

 凝り性なのだ。やると決めたらとことん極めないと、気が済まない。

 それから……不安もある。このきらびやかな場で、自分の浅い人間性を見透かされてしまうのが怖い。


 不安と、そして闘争に湧く心と。真逆のような感情が同時に私を支配する。

 私が人間だったときと同じだ。こういう場に不安になりながらも高揚してしまうのは、元々の性質なんだろう。女神さまの言う空っぽの心がそこに拍車をかけて、過剰な行動に走らせた。


 彼にエスコートされて舞踏会に入った瞬間、近くからざわめきが広がり、やがてそこにいる皆が私に注目した。

 おそらく正体に気付いたはず。私のドレスは女神さまの色として身に着けることが禁じられている菫色をしていて、さらにはきらきらと不思議な光をまとったものだからだ。

 パッと見で女神の眷属と演出できる服。クロがどこからか用意してくれた。


「前にこの城に来たのは、あなたが戴冠する少し前だったわね」


 彼から離れ、一人、国王の前に進む。わざと不遜な態度をとった。王族に気を使わないほどの大物。そう皆に知らしめるためだ。

 国王も私の態度を当然として受け入れてくれる。百年以上の年月の間に、私はたいそう偉い人だと思われちゃっているので。


「森の魔女よ。わざわざ姿を現してまで伝えなくてはならないほどの、大きな問題が起きたのか?」

「いいえ。ただ、お気に入りの子が舞踏会でどんな風に振る舞うかを見に来たのよ」


 国王が目を見開き、私の背後で小さなざわめきが起きたのがわかった。お気に入りの子、というのが誰なのか、それは明らかだった。今日私をエスコートしてきた彼以外にない。そう、このところ社交界でぶっちぎりで落ち目の彼である。


 そういえば森の魔女について、綺麗な顔の人間がその身を差し出すと望みを叶えてくれるって噂が流れてるんだっけ?

 この状況だと、彼は私の愛人だとか思われるかもしれない。

 でもいい。そのくらいの誤解があったほうが、これからの彼を守れるだろう。

 彼に害をなすと森の魔女が黙っていない……かもしれないと、思わせられればいい。彼なら、周囲の思い込みを上手く利用して立ち回れる。


 人々の動揺を無視して、私は薬の入った小瓶を取り出した。


「これを王妃に。女神の加護が与えられた治療薬よ。国のため、彼女は今死ぬべきではない」


 私に近づこうとした大臣を制し、国王は自らの手で薬を受け取った。


「女神のご慈悲に感謝を……」


 国王の礼に、慇懃に頷く。

 よし、任務終了だ。あとは個人的な目的のほうをついでに果たさせてもらおう。

 私は近くにいた可愛らしい女性に目をやった。女性の隣には、彼女を守るかのように険しい顔をした男性が立っている。

 この二人が、今日この場で彼に婚約破棄を告げようとした第三王女とその恋のお相手だ。


「あなたが彼の婚約者という、王女様ね。……ああ、怖がらないで。彼の味方は、私が守る相手でもあるのよ」


 私の持てる演技力総動員だ。こういうのはちょっとでも恥ずかしがったり、躊躇してしまったら負けだ。

 絶対裏に含むものがありそうな、でもこれ以上なく優しげな笑顔。

 ここに来る前、上流階級に人気の小説とやらをいろいろ取り寄せた。その中でも大人に密かに人気というファンタジーに、こういう笑顔だけどなんか怖いっていう魔法使いが出ていたので参考にさせてもらった。

 完全にはりぼてなんだけど、それを知るのは私とクロくらい。


「彼とあなたの結婚式には、私も森から祝福の風を送りましょう」


 言うだけタダ。これでちょっとでも風が吹けば、勝手に誤解してくれる。


 周りがまた少しどよめいたのがわかった。

 王女が破棄しようとしていた婚約を、森の魔女が続けろと言ったのと同じだ。


「ありがとうございます。彼との結婚を森の魔女に祝福していただけること、とても光栄に思います」


 震えることもなく、控えめだけど毅然とした返事が返ってきた。なかなか度胸がある。


 婚約破棄を叫ぶのは皆のためにならないと、王女は瞬時に理解した。そしてこちらが示した、元通りに政略結婚する道をちゃんと選んだ。

 恋に溺れすぎることなく状況判断できる。それは貴族社会で生き残る大事な才能だ。


 この王女が真実の恋の相手どうこうで婚約破棄しようとしはじめたとき、周りは相当驚いたに違いない。

 私は隣の男性を見る。険しい顔をし続けている相手に微笑む。


「あなたのことも聞いているわ。なかなか優秀な人だとね。ぜひ、二人のよき理解者になってくれるかしら。責任ある王族の支えとなるのは、配偶者だけではないと私もよく知っているのよ」


 王女の配偶者ではなく愛人として、恋のお相手を務めてもらう。それを遠回しに告げたのと同じだった。

 すっぱり切り捨てるのも方法の一つだけど、ここは良い具合にこちらにおもねる道を示したほうがいい。何かあったとき、常に私が前にでて戦えるわけじゃない。買わなくていい恨みは避けておいたほうがいい。

 ライバルの彼のほうは、戸惑ったあと小さく「はい」と返事をした。


 私の行動は、彼女たちにとってありがたいものになるのかな。それとも迷惑?

 どちらにしろここは私のわがままを通させてもらう。また物語の悪役になってしまった気分だった。


 ……実際、一人のことは確実に傷つけてる。

 私は彼に視線を向けた。彼は呆然として私を見ていた。私は優しく微笑みかける。これで何も問題ない、とでも言うように。


 静まり返った広間を一瞥して、できるだけ偉そうに告げる。


「なんだか場を白けさせてしまったみたいね。私はこれで失礼するわ。それでは皆様、ご機嫌よう」




 彼を残して、先に城を後にした。

 家に着くなり、私は荷造りを始めていた。たぶん今日のあれは上手くいった。役目は果たした。ってことでしばらくここからおさらばしたい。

 本当はこれから時間をかけて準備をして出ようと思っていたけど、もうこれ以上ここにいたくない。


「どこ行くか決めてるのか?」

「なんとなく、まずは海のある国に行こうかなって思ってる」


 この国を出て、旅をする。女神さまからは百年の休暇の許可をもぎ取り済みだ。

 私の不在は周囲に知られないよう、ちゃんと計らってもらえる。おまけに必要なときは、クロを通じて戻るよう呼びかけてもらえる。そのおかげで、彼の後ろ盾を表明しながら、早々に国を出られるわけだ。


「このブランケットも入れてくれ」

「はいはい」


 旅にはクロも同行予定だった。クロが当然のように着いてきてくれることは、すごく嬉しい。


 目がついたものを適当に鞄に入れていく。

 クロの魔法がかかった、不思議な旅行鞄。見た目よりもたくさん入って、でも重さは軽いまま。中身が壊れる心配もないという最高に都合のいい便利グッズだ。


 お気に入りのティーカップも持って行っちゃおうかななんて思って、食器棚を見たのは失敗だった。

 ティーカップを手にするつもりが、私はなぜかケーキ用のフォークを握りしめている。

 彼専用に用意したカトラリー。見た瞬間に気に入って、これに合わせてティーセットを揃えたのだ。


「いいのか?」


 クロが棚に飛び乗り、私の手元に鼻先を寄せて軽くつつく。


「アイツは悲しむぞ」

「私と彼は、住む世界が違うわ」

「アイツが人間のままでも、交流を続けることはできるだろ。友人でも――それこそ、愛人でも不幸せになるとは限らない。王女とは政略結婚。向こうさんが愛人を持つのはもう決まってるし、アイツだって好きな相手とそうなっていい」

「そうね。これからそういう相手が見つかるといいわね」


 心にもないことを言っている自覚はあった。


「本当にいいのか?」


 もう一度、念を押すように聞かれる。


「私、そこまで人ができてないの。……人じゃないけど」


 そう。人じゃなくなってしまったからこそ、おかしな妄想をしてしまうのかもしれない。

 この国を出て、どこか遠くへ。こんなしがらみのある場所から逃げて、二人で過ごしたい。自分と同じ世界の住人になってもらいたい。

 でもそれって、彼に自分以外を捨てさせることだ。


 こんな重い感情、ぶつけるわけにはいかなかった。女神さまに嘆かれるほどの空っぽの心を、一人の人間で埋めさせようだなんて、いいはずがない。

 彼のことは好きだけど、それが重荷になる未来はごめんだ。

 連れ去りたいくらい恋しく思うけど、不幸にもしたくない。


 もし自分が望むほどの熱量が彼から返ってこなかったら? また昔のように、満たされない心を誤魔化すため、周りを巻き込んで引っ掻き回す問題児になるかも。そんなのもう勘弁して。

 一旦スイッチが入っちゃった場合の自分を、私はこの世の何より信用していなかった。


「このままじゃ私、彼を攫っちゃうかもしれないの」


 だから物理的に遠くへ行く。自分に馬鹿なことをさせないため。


 だいたい、すでにちょっと箍は外れてしまっている。私がわざわざ彼のエスコートで舞踏会に出席しなくたって、彼と王女の婚約を続行させ、彼の地位を保つことは可能だった。

 たくさんの人の前で、彼との仲を疑われるような行動をしたあたりに、無意識のうちに暴走気味だったことに気付く。


「舞踏会に行くこと、止めてくれてもよかったのに」


 恨めし気にクロを見る。

 計画を話したときに、私がおかしいと絶対に気付いていたはずだ。


 クロはにゃあと鳴いた。笑ったのかもしれない。

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