第2話

 どうせ口約束で、もうここに来ることはないと思っていたら、彼はそれから三日と開けずに私の元を訪ねるようになった。

 手土産にはあのチョコレートケーキ。

 さすがに飽きると思ったのか、同じ店の新商品を持って来たり、慣れてきてからは彼のお気に入りだという別の店のお菓子を持って来たりした。

 酒もたしなむと知ってからは、それも加わった。

 どうやら私たちは、食べ物に関する好みが大変合うらしい。

 さらには彼と話すのは楽しい。

 あの木製のテーブルに着くとき、向かいに彼がいることが当たり前になりつつあった。


「胃袋掴まれてるだろ、完全に」

「否定できない……」


 二日ほど前に彼が持ってきてくれた、日持ちする焼き菓子をつまみながら、私はぼんやりクロの言葉に頷いた。


「彼がこの家に辿りつけたのは、私の食事の相手になるためかしら」

「君は案外、寂しがり屋だからな」

「うるさいわよ」


 黙らすために、持っていたお菓子をクロの口元に強引に差し出す。クロは、一瞬顎を引いたあと、ぱくりとそれに食いついた。

 クロは本物の猫じゃない。女神さまに与えられた精霊みたいなもの。飼い主とペットなんて関係ではない。たぶん囚人と看守というのがふさわしい。でも長く一緒にいる間に、この退屈な森の生活を送るための相棒みたいになっている。


 食べ終わったクロが、小さな舌でペロリと口周りを舐めた。


「でも最初のとき以降、あいつが頻繁にここに来ることができるのは、君が内心で彼を拒否してないからだ」

「わかってる……」


 女神さまのおわします聖なる山ってやつと街との間にあるこの小さな森は、明らかに不思議な力で守られている。切り拓こうとすれば酷い災害が国を襲うし、害意ある者が踏み入れると迷ったまま出られないし、無害なら逆にすぐ森の外に出てしまう。

 私の家に辿りつける者も、森が選んでいる。私に用があって、敵意を持たない者のみ扉を叩くことができる。

 神頼みに人が頻繁に森に入っていたころ、たまにだが辿り着く者がいて困るので、判定基準を上げてくれと私のほうが神頼みした。

 そうして完全に人が来なくなって、何十年も経つ。彼は久しぶりの客だった。


 私は窓の外を見た。

 今日は土砂降りの雨。きっと彼は来ない。

 森の外からこの家まではそこそこに距離がある。整備された道はなく、なんとなく通れそうなけもの道を進むしかない。

 毎回、貴族らしく仕立てのいい外行きの服を着こみ、でも徒歩でやってくる彼。薄暗く、足元のよくない日に訪ねてくるのは危険だ。


 明日も明後日も晴れてほしいと願ってしまう。雨の次の日だと足元が危ういから、二日続けて晴れてくれないといけない。


 よくない傾向だった。百数十年かけてようやく辿りついた穏やかな日々が、壊れていく予感がする。




 私が女神さまの加護を受けているっていうのは、正確には違うと思っている。

 加護っていうか慈悲の方が近いんじゃないかな。


 いろいろあって眷属にされ、この森に住み始めて百数十年。長く生きている実感はあるけど、内面は肉体の年齢に引っ張られるのか、ほとんど年齢を重ねた実感はなく、気付けば百年以上経ってしまった。精神年齢という点に関して、私は人間の感覚とはかけ離れてしまっている。完全に枯れることはできず、しかし人間の若者に比べれば無駄に年月を生きて知ってしまったことも多い。


 たぶん、私の時間は私が人間でなくなってしまった頃で止まっている。ただ長い年月の間に、悟ったような態度を装うのが上手くなった。他人に対しても、自分に対しても。

 でも、彼と交流しているとその態度も崩れそうになる。


 私たちの間に、言葉にしようがない心地のいい空気が流れだしたのはいつからだろう。

 心地がいいけど、同時に怖い。でも、彼が訊ねてくれば迎えてしまうし、共にお茶やお酒を楽しんでしまう。


「んー、やっぱりこの味ね」


 今日の献上品は、久しぶりにまたあのチョコレートケーキだ。


「よほど気に入ってるんだな」

「まあね」


 食べかけのチョコレートケーキを見ながら、少し感傷的な気分になる。

 王家御用達にまでなった店のケーキ。正体を隠して手に入れるのは少し面倒で、もうずっと口にしていなかった。

 私がまだ人間だったとき、新しく商売を始めたばかりの店だった。このケーキの美味しさを最初に貴族に広めたのは他でもない、私だ。あれからずっと店が続いて、今は老舗といわれるまでになっているはず。


 ふと顔をあげると、甘ったるくて優しい眼差しがこちらに向けられていた。困るような、嬉しいような、そんな気持ちで私は小さく笑い返す。

 最近こうやって彼と視線が合うことが多かった。どちらかが見つめていて、気付いたほうが笑い返す。そこに言葉はないけれど、流れている雰囲気がどういうものなのか、わからないほどお互い初心じゃない。


 通い始めた頃の彼は、私を味方につけての一発逆転を諦めていなかったはずだ。言動にそれを望むような気配をわざと漂わせてこちらの出方を窺い、私がはぐらかすように返し……というやりとりを二人して楽しんでいたところもあったのに。それが今は、まったく違うやりとりに変わっている。


「実はこの店、ここ数年はちょっと危なかったんだ。別の似たような店が人気になったのと、後継者問題でもごたついててさ」

「まさか、潰れそうなの……?」

「持ち直してるよ。以前ほどやたらめったら名前だけ持ち上げられることはなくなったけど、店の雰囲気はよくなった」

「あ、わかった。私にこの店のお菓子をよく持ってくるのって、応援したい気持ちもあるんでしょ」

「正解。店の問題解決に力を貸した縁もあるからね」


 驚いて目を見開くと、彼はちょっと得意げになった。


「といっても、ちょっとした経営のアドバイスと、人脈を使って新しい客たちを少し引き込んだくらいなんだ。俺もここのケーキは好きだから、潰れてしまうのは悲しい」

「私も、この店はお気に入りだわ。人間だったとき、よく食べてた」


 今度は、彼が驚く番だった。


「人間だったのか」

「すっごく昔はね」

「どうして森の魔女に? よほど徳を積んで女神に認められたとか……?」


 私は笑いを堪えながら、違うと首を振る。眠そうに丸まっていたクロまでも、「くくく……」と忍び笑いしていた。

 彼だけがわけがわからなそうに首を傾げている。


「逆、逆。やりたい放題しすぎちゃって、目を付けられたの。眷属にされたのは女神さまの気まぐれ?」


 言いながらクロを見ると、さあなと言うようににゃあと鳴かれる。


「あのころは、なかなか好戦的で野心家な同年代の人間が、社交界に揃いすぎてた。私もその一人なのよね」


 昔のようで、ついこのあいだみたいな感覚だ。クロが歌うように口を開いた。


「恋多き公爵令嬢。気に入らない者は、手を回して陥れ――」

「逆に陥れられ、また逆転してを繰り返しよ。みんな笑顔の下に黒いものを隠していて、気を抜けばすぐ裏切ったり裏切られたり。誰もがゲームを楽しむみたいに熱中してたわ。おかしかったわよね、あの空気」

「互いが互いに影響し合って、妙な具合に加熱しすぎたんだろうな。あの時代には女神と直接喋ることを許される聖女ってやつが生まれたり、国全体が浮かれてたんだ」

「俺も知ってる。王宮があまりにごたついて国の統治に影響が出すぎたせいで、女神が直々に調停したって伝説だ。あのときから森の魔女が現れて、何かあればすぐに国王に女神からの助言や忠告を伝えるようになって――」


 あれ、という顔で彼が私を見た。


「そう、そのときに、ごたつきの中心にいた私を女神さまが眷属にしちゃったのよ。周りから生贄として差し出されたとも言うわね」

「そこまで酷いことをしたのか?」

「どうかしら。一番やらかしたというより、やらかしを一番隠しきれなかったのが私って感じ。他の誰かが生贄にされたとしても、意外ではなかったわ」


 あれを一つの物語とするなら、私はさしずめ悪役令嬢。そういう役を振られるのにちょうどいいポジションにいた。


「聖女って呼ばれたやつも、後ろめたいことの一つや二つや……同じくらいやってたしな」

「俺の聞いた話だと、唯一綺麗な心を保っていた聖女が女神の力を借りて、正気を失いかけていた人たちを元に戻したってことだったけど」

「百年以上も経てば、話も変わっちゃうんでしょ」


 誰もかれもが悪者だったというより、善き者が悪者を裁きましたって形にしたほうが、都合がいい人達もいるのだ。

 その流れのなかで、私、つまり森の魔女が、かつて渦中の悪役令嬢だった事実は消えてしまった。

 ついでに私の名前も忘れ去られ、代わりに魔女と呼ばれるようになった。


「私もあなたみたいに、婚約破棄されたのよ。……あ、そっちはまだされてないんだっけ」

「されてない。というか、あなたには婚約者がいたのか?」

「お前と同じく王族相手の政略結婚さ。こっちは第一王子だったけどな」

「へえ……」


 彼は、なんだか微妙な顔をした。


「そういえばどうなの? あなたの婚約、そろそろ破棄される?」

「面白がってるな」

「貴族のゴシップを当事者から聞くなんてこと、百年以上ぶりだし」

「大詰めってところ。俺が急に大人しくなったもんだから、向こうの予定は狂ってるけどね。こちらからは下手に行動を起こすなって父に言われてるんで、なるようになるのを待つしかない」


 説明する彼は落ち着いていて、ここに来たときのような悔しそうな様子も、焦りもない。


「なんだかんだ俺の家もでかいからさ。情報を囁いてくれる者がいる。王女は、今度の王宮の舞踏会で俺に婚約破棄を宣言するらしい。後戻りできないよう、二人は国王の前で愛を叫ぶらしいよ」

「ええ? それ、成功するの?」

「何を成功とするかにもよるけど、向こうの目的は叶うだろうな。最近はマシだけど、俺の評判は落ちたままだし多少は同情票も入るだろ。まあ、第三王女と彼の評判もガタ落ちするけど、彼らが一番優先したのは二人でいられることだから。やらかした王女は隠居、傍には一途な彼、って流れかな」


 私が独自に集めた情報と照らし合わせても、たしかにありえそうな話ではある。


 でも一つ、彼の言葉に足りない部分がある。それは王女側が、本当に今も恋に生きることを望んでいるかはわからないということだ。

 あの二人は派手に動きすぎてしまった。今さら自ら婚約破棄やめますとは言い出せない。かといって、最初の予定が崩れていてすんなりと破棄できない。

 

 貴族どころか国民まで注目し始めてしまった、第三王女の婚約問題。さまざまな要因が絡まり合い、中途半端に拗れた状態で止まってしまった。こうなれば何か大きな出来事を起こして、強引にカタをつけるしかない。そう王女は判断したのだろう。

 第三王女は恋に生き、身分は低いが愛のある男性と共に隠居する。

 なかなかドラマティックだ。それが真の望みかどうかは不明だけど。


「その後、あなたはどうなるの」

「今の感じだと、王家は俺の家を悪くは扱わないだろう。でも俺自身に関して言えば、勘当に近い扱いになりそうだ。当主の父が怒ってるからね。俺も隠居生活の開始かな」


 状況はこれ以上なく悪いのに、説明する彼は淡々としていた。


「だけど、もういいんだ。だって俺は――」

「ねえ」

「ん? なに?」

「そろそろ陽がくれるわ。暗くなる前に帰ったほうがいいんじゃない」


 話が変な方向に向かってしまう気配を感じて、私は強引に会話を終了させた。聡い彼は、無理やり続きを告げようとはしない。

 でも代わりに、何かを含んだような軽口をたたかれる。


「帰れなくなったら、泊めてもらえる?」

「野宿するなら、毛布くらいは貸すわ」


 笑って返す。彼はちょっと落ち込んだようだった。


 私の家の周りは、まるで木や茂みが避けるようにぽっかりとした空地になっている。私は小さなけもの道のところまで、彼を見送った。来る者によって現れたり現れなかったりするこの道は、街と私の家を繋いでいる。人によって距離さえ違う。

 陽が思ったより傾いてきてしまったからと、ランタンを彼に差し出した。


「特に魔法なんてかかってない、ただのランタンよ。返さなくてもいいから」

「ちゃんと返しにくる」


 ランタンを渡して戻そうとした私の腕を、彼の空いた手が掴んだ。驚いて彼を見ると、これまで向けられたことのないような、切なそうな顔をしていた。


「俺は、あなたにパトロンになってほしくてここに通ってるんじゃないよ」

「でも最初はそうだったはずだわ」


 謝罪のためにお菓子を届けに来てくれ始めたときは、たしかにそういう下心を持っていたはずだ。


「今は違う」


 切ない顔をしているのは彼なのに、私のほうがなぜだか泣きそうだった。

 彼が下心を持ってここに来ているわけじゃないことは、ちゃんとわかっている。

 ここ最近、私と彼の間に流れている雰囲気で気付かないほうがおかしい。彼も私も気付いていて、あえて言葉にしていなかった。

 いや、私が言葉にさせなかった。しなくていいでしょって空気を出して、彼がそれに応えてくれていた。

 今だって、可能な限りの遠回しな表現で、私の反応を窺っている。


 私は何も答えなかった。

 その代わり長い間見つめ合って――やがて彼は帰っていった。


 だめだ。このままでは。

 私がこの森に引きこもっているのは、もう心に波風を立てたくないから。百年もの時間のおかげで、ようやく穏やかな気持ちになれていたというのに。


 かつて、女神さまに言われた言葉が蘇る。


『あなたは空っぽなの。空っぽが故に満たされない気持ちをどうにかしようと、恋をたくさんしたり、権力を望んだりしてる。だけど結局は、どの恋にも本気になれず、権力を持っても満足できない』


 何をしても満たされないあの感覚が戻ってきてしまったら、またそれを忘れるために長い時間が必要になる。


 それに今回は、私が人間だったころとは違う。

 あのときはいろんなものに、満たされない気持ちをぶつけていた。

 だけどいま、もしあの感覚が戻ってきたら、全力でただ一つの対象に思いをぶつけてしまう。


 それだけはダメだ。好き合っていれば、なんでも乗り越えられるわけじゃない。


 わかっているのに、訪ねてくる彼を拒否することができない。もう少しだけ、彼との時間を過ごしたいと思ってしまう。

 重症だ……。

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