第2話 忘情水

 そのような貴族の少年との日々も二年程になり、私達はやがて友から兄妹のように親しくなり、やがて将来を誓い合う仲になりました。それは、河が流れるとか、草が育ち、花が咲くみたいな、自然の流れでした。

 お互いの眼を見つめると、その奥にあるのが自分の姿と身近な庭の植物と空で、時が経ってもそれは変わらない。これは永遠に変わらないものなんだと思っていました。庭を臨む東屋で話す時、私達は、話し飽きる事がありませんでした。その頃には私は相手を主兄様と呼んでいました。その穏やかさは成長し青年に近付いても変わらず、その着ている物の衣擦れの音さえ涼しげで優しく聴こえ、主兄様らしいと感じたものです。

 幼い頃は、「主兄様、あの夕陽の色の花の匂いは、去年もああでしたか? 今年は特に甘くて」とか、「雨が降った後の草の匂いって好きだな」とか、「今日、教育係の先生から叱られたのですよ。ほら、主兄上がもう飲まなくていいって言ったお薬の事」とか、

「僕はもう健康なんだよ。そんな事で叱るなんて、僕が抗議してくるよ。ほら、だからそんなに泣かないで。このお菓子をあげるから」とか。

 その世界にもこちらのキャンディみたいなお菓子がありました。レモン味で三日月形で、口に入れると甘酸っぱいんです。ここでは何かにつけ、三日月形が高貴とされていました。主兄様はそのお菓子をいつも持っていて、分けてくれていたのです。


 子ども時代を過ぎると私達の会話も少しずつ変わってきました。

「主兄様の青い着物に、本当に私が刺繍を施して良いのですか。お揃いの鳥の刺繍です」とか、「今度の町のお祭りに二人で行こうよ。花火があがるんだって」とか、「お祭りには占い師という者もいるのですよね。未来を見る事ができるとか。私達の未来を見てもらえるのかしら」とか。

 その世界では、お互いの着物に同じ刺繍を施すのは、運命を共にするという意味でした。鳥の刺繍を見た主兄様は、「鳥は翼があるから自由に空を飛べていいな。僕にはこの敷地の中しかないのに」と呟きました。私は「それでもここはお屋敷も庭もとても広いではありませんか?」と言いました。「でもこの敷地の外は、どんな世界が広がっているのかと考えるんだ。ここではいつも一種類のもので何も選べないけど、外の世界は、あらゆる種類があって選べるんだって」


 その時、私は、かつて選別されてこの身分になったものの、そうでなければ外の世界に行く身だったかもしれない事を思い出しました。そして外の世界に少し興味があった事も。でも恋のため盲目になっていた私には、その時はこの敷地内の世界だけで十分だったのです。そしてお互いの着物に刺繍する事により、将来を共にすると誓い合う事になったのです。


 もちろんそれは私の身分ではあり得ない事でした。気持ちが通じ合う喜びは何事にも変え難かったのですが、どんな波紋を起こすかという不安もありました。事実、波紋は数々に及びました。お祭りの日に一緒に町に出かけ、家族と呼ばれる人たちのように寄り添って歩くところを見つかった時は、ひどく叱られました。

 特に以前の教育係の女性からは、別れるように熱心に説得されました。私を心底心配していると言い、驚いた事に一緒にこの敷地を出る話までされました。子どもの頃から一緒に働いていた仲間達数人と敷地の外の世界で働こうという計画があると打ち明けられたのです。

 ですが私はまだ子どもで、私と彼が一緒になる事を阻むのはみんなの嫉妬心なんだと勝手に思ってしまったのです。


 それが彼の親族からも反対されていたのに、やがてある日、あっさりと認めてもらえる事になったのです。それは黙認にも近かったのですが、私達はその頃は深く考えず、素直に喜んでいました。

 そんなある日、私は廊下で、家人の話を立ち聞きしてしまったのです。それは、今は二人の仲なんかどうでもいい、もっと重大な事がある、どちらにしても息子とどこかの令嬢の婚約の話はもうないだろうからという囁きに近い会話でした。後になってその会話の意味は分かったのですが、その時はよく分からず、ただ胸騒ぎがしていたのを憶えています。

 そして春のある夜、空には大きな満月が輝いていました。私が「月が貴人のぎょくのように綺麗ね」と言いました。でも主兄様は言いました。

「満月は不吉の兆しなんだよ。僕は欠けた月の方が好きなんだ。それにほら、僕達一族の紋章は三日月をかたどっていて、三日月が守神になっているだろう?」

 確かに紋章の三日月には普段見慣れていました。それでもまるで剣の刃先のような細い三日月の形は頼りなげで胸を寒々とさせます。私は広い世界のどこかにはきっと満月が愛される場所もあるんだろうとその時思いました。でも今の人生でも私が何かを選ぶ時、欠けたものにひかれる傾向があるのはそんなエピソードの影響です。

 その夜、一緒に夜の空を見上げていた彼の雰囲気はどことなく寂しげでした。そして彼とちゃんとした会話をしたのはそれが最後となったのです。


 明くる日の夜明け前、何かを壊すような大きな物音と叫び声と悲鳴で目が覚めました。奇襲でした。私は助けに来た警備隊の男の人と子どもの頃から私をしつけた教育係とに誘導され、逃げました。主人筋はみな別のルートで逃げているとも聞き、安心していましたが、詳しい事を訊くと話を濁されました。

 敷地を出て、森の奥をひたすら走り、逃げました。年に一、二度、お祭りの日に町に出てはいたものの、こんなに長く生まれ育った敷地を離れた事はなかったのです。何より世界がこんなに広いものなのかという事が驚きでした。

 逃げる途中、途切れ途切れに聞いた話で、あの敷地を取り巻く世界では、この敷地内の人達が陰謀を巡らし反乱を起こそうとしていると噂され、奇襲をかけられたというのです。ただ、私が生まれてから教えられた事の一つ一つには、何ら危険と感じられる思想を育むものはなく、そこでは平和や思いやりが、重んじられていました。そして、身分に関わらず、品格のある言葉や行いが価値あるものとされていたのです。またさらに私を導く二人の会話から、敷地を取り巻く大きな世界を支配している政府はそれ自体が暴力で外部から土地を略奪してきた侵略者である事、有識者の中にそれを非難する声があったり、また元の政権を取り戻し、虐げられている人達を救おうという団体が世界中にあって、私達の住んでいた土地の一族もそれに賛同していた事を知りました。

 逃げる途中、匿ってくれた農家の納屋で私はもしこのまま逃げて友好国まで行ければ、助かるだろう事を知りました。そして警備隊の人と教育係の人の会話で、とんでもない事を聞いたのです。私が婚約前で良かったと。もし一族とみなされたら、たとえ友好国でもそこの住人は私を引き渡さなくてはいけないと。

 では、あの屋敷で貴族であった方達はどうなったのだろうと急に不安になりました。とにかく友好国まで逃げるのが先決でした。そこは貿易の要の場所であり、情報に長けた人もいるとの話でした。

 ようやく着いた友好国は、以前の、外の世界に憧れていた私であれば、素晴らしく胸をわくわくさせるような場所だったかもしれません。大きな町にあふれる活気。美しい着物を着た人々。両側に整備された遊歩道のある大きな川。でもその時には不安で全ての風景が胸苦しくさせるものとなっていました。そして…


 そこで見張っていた政府の人達に私達は捕まったのです。

 私は、ある意味、一緒に逃げてきた二人の言葉に背いてしまいました。警備隊の人も教育係の人も、私にただの使用人として屋敷にいたと言うよう、求めました。

 私もそのつもりでした。

 愛する人がその親と共にすでに死んでしまった事を知るまでは。そして生前恋人等はいなかったと証言していた事を知るまでは。


 結局、私は政府の警察のような役人に正直に自分は一族の子と将来を誓い合った仲である事を話してしまったのです。その代わり、一緒に逃げた二人は一族とは直接の関係がないので逃してほしいと。

 もちろん将来を誓い合った人、そしてその親の証言の真意は分かっていました。私に一族の悲劇が降り掛からないようにという気持ちです。でもその日初めて外の世界、賑やかで建物の立ち並ぶ世界を見た時、最初の驚きを通り越すと、描いていた美しさとはやはり違うと感じ、一緒にいて幸せと感じた人と家族同様の立場で、美しいと感じた世界の住人として人生を終わらせたい、たとえいつまで続く命かは分からないにしても……と決断したのです。

 そこから命を落とすまでは多分そんなに長くはありませんでした。飲む事になった薬のための痛みと苦しみで朦朧となっていたからです。ただそれから経験した事の記憶が生きていた時なのか死後の事なのかが分からないのです。


 突然痛みも何も感じない世界で、一杯のコップの水を渡され、飲むよう促されるのです。夢のまたさらに夢の中といった感じで。どこから聞こえてくるのか分からない声で「それを飲めば今までの事を、苦しみや悲しみも含めて全て忘れて癒やされ、新しく生まれ変われる」と言われたのです。が、私は決して飲もうとはしませんでした。忘れたくなかったからです。たとえ苦しみや悲しみもあったとしても、輝いていた記憶があるので。あの時、別な身分で働く事になっていれば、私は生き長らえて、でも本当に守りたい記憶もないまま、生涯を終えたのでしょう。

 その水を飲まないのは辛い事で、強い意志と忍耐力が必要になると、心のどこかで分かっていました。それでも記憶は無くさない、だから水は飲まないと強い意志で決めていました。本当は喉が渇いていたのですが。それから喉の渇きを常に感じながら深い海の底で何も出来ず何年も何十年もただ眠り続けていた気がします。



 今の人生では、全てに恵まれた環境の中で、時に傲慢にもなってしまいました。時々反省し、別な生き方をしようと思って、欠けた月を見上げたりします。悲しい事に私はあの頃の自分ではありません。

 いつかは生き方が変わり、あの世界にいた頃の自分に近づけたのかもしれません。でももうそれは叶わない事です。

 なぜこれまで誰にも口外しなかった夢の話をこの手紙に書いているのかというと、実は最近ある病気を診断されたからです。それは若くしてこの世を去る可能性がひじょうに高い病気です。また病気の進行により今後記憶の一部が失われる事になる事も知らされました。

 もし夢の中の人生を忘れてしまう日が来るとしたら、それはもう、誰の記憶にも残らず、どこにも記録されないまま消えて無くなるという事です。


 今の自分についてはあらゆる場所に記録が残り、戸棚の中のアルバムには生まれてから最近までの写真も貼られています。でも、もう一つの人生で過ごした場所や人々の事についてはどこにも記録はないのです。

 これまでにも実は図書館や博物館で、今の前の人生を送ったであろう地域、そしてそこにいた一族について調べ、特定しようと何度も試みました。でも似たような話はたまにあるものの、どうしても見つけ出す事は出来ませんでした。 

 ですからせめて誰かにこの場所の事、そこに住んでいた人達の苛酷な運命の事を知り、憶えていてほしくて手紙を書きました。長々とすみません。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。これからのご活躍をお祈りしています」


*******************


 ――忘情水ぼうじょうすいだ。


 ――え?


 ――仏教で、死後に、飲まされる水の事。それを飲むと煩悩から開放される。全ての記憶が消されて、また生まれ変わるんだって。


 ――仏教に詳しかったかしら?


 ――アジア圏の人気歌手の歌にあるんだ。忘情水を飲みたい、恋の痛みを忘れるためにって。


 ――飲みたい、か。失恋の歌なのね。もしこの手紙の送り主のように飲むのを拒否したら?


 ――それが手紙の通りなんだ。苦しい事、修行のような事が待っていて、でもそれを乗り越えたら誰かに生まれかわれる。その苦難を乗り越えた者の顔には印の刻印が刻まれる。


 ――何それ? 怖い。


 ――別に怖くないさ。エクボの事だって。


 ――なんだー。それじゃ、ただのチャームポイント。ね、これ本当だと思う?それとも脳の病気とかで見た幻なのかしら?


 ――愛したのは真実だと思う。


 ――そうなの?


 ――他は分からないけど。だってそれだけのためにこの手紙はきっとここに生き残ったんだよ。誰にとっても何かをシュレッダーに入れられない理由なんて他にあまりないさ。

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