三日月の国の記憶

秋色

第1話 春の運命

――どう? これが明日のラインナップ。この間の特集が好評だったから、こんな感じで曲を並べてみた。テーマは「春の運命」。



 四月の朝の空気は澄んで、風が氷の粒を運んでいるように冷たかった。放送局の前を走る道路沿いの緑の街路樹も、入り口前に植えられているピンクのツツジも今日は震えているように見える。

 放送局の一室では翌日の番組の打ち合わせが行われていた。街路樹が見降ろせる部屋には、番組を担当する三人がノートパソコンとコーヒーの置かれたデスクの前にいた。構成作家の沙子とディレクターのミキヤ、パーソナリティのDJシュウだった。



――了解。ね、ミキヤ君、DJシュウの選曲は見直す必要もないよね、いつも。私もテーマに合わせてメールをいくつかピックアップしたの。


――ではシュウさん、曲の間に読むメールを選びますよ。


――んー、ピックアップしてないのも読んでみたいな。いつも沙子さんが選んでないのに気に入ったのがある。


――何? 喧嘩売られたみたい。ただメールを選べばいいわけじゃないんだから。この番組、「グッドオールドサタデー」のスポンサーはコーヒーの一流ブランドでしょ。番組で読むメールはあくまでコーヒーとスイーツが似合うような爽やかさと軽やかさがないとね。


――こんな時世に? 世界にウイルス肺炎の恐怖が蔓延しているんだよ。これが「春の運命」。


――この放送を聞いている時だけは世の中の暗さ、辛さを忘れられて心が癒やされる…そんな番組を目指しているのよ。少なくともスポンサーの希望はそう。運命もこんな感じ。ほら、一枚目にこれはどう?


――暗さも辛さも人生の一部なのにな

。いやいやスポンサーは神様だからね。どれどれ…「こんにちは、DJシュウ。僕はこの春、新社会人になりました」 これ、一曲目のUp on the roofに合うか??


――続きを読んでみてよ。


――「仕事に慣れなくて上司に叱られ通しで、毎晩落ち込んでばかり。早くも辞めようかって気になってしまうのも当然ですよね」…って甘いね、このコ。これが「春の運命」だって? 「ところがこの前の朝の事です。エレベーターの中で自分の前にいる社員の足元を見ると、なんと自分と同じスニーカーなんです! スニーカーで出社する事自体珍しいし、自分のスニーカーは高校の頃、陸上部にいた時から地元の中規模メーカーのあるブランドだったから、レアなんです。それでエレベーターを出た後、追い抜いてどんな社員なのか見ようとしたら、何と幼稚園時代の幼なじみでした。しかもその幼なじみをどうして覚えてたかっていうと、幼稚園の時も履いてた靴が偶然同じで――アニメのキャラのやつ――お揃いだって盛り上がった事あったんですよ。

 その再会以来、たまに晴れた日の休憩時間には屋上でいろいろ仕事の話やお互いの学生時代の話をして、ストレスを発散して楽しい時間を過ごせるようになりました。今度ステイホームが終わったらツーリングする計画も立てているところです。幼なじみとの再会がなければ仕事辞めてたかもしれないから、ある意味運命ですかね」

 そう、運命で間違いないよ。 屋上で友達と過ごす時、ラジオを聞いてるのかな。これだとUp on the roofにも合うね。一枚目はこれで決まり。あとは…。二曲目はWhen I fall in loveなんで、恋愛に関するメール、何かない?



――じゃ、これはどう?

 「いつも楽しく聞いています。私は大学二年生です。この間、高校時代からの親友の彼氏さんに初めて会ったんです。それがショックな事に私がずっと好きな人でした。親友は私の顔色が変わったのを見て、『彼を知ってるの?』とたずねました。でも私は初対面って言い切りました。彼も私に『初めまして』と言ったし。私はずっと好きだったんですけど。

 でもそんな事言えないし、それどころか私はせいいっぱい親友を引き立てて、彼女が高校時代、可愛くて人気者だった話ばかりしました。心の中の悲しみを悟られないようパンケーキを一人で三枚も食べて。二人が帰った後、カフェのオーナーさんがテーブルを片付けに来て『涙こらえてない? 前から好きだったの? 恋に予約も先着順もないんだよ、お嬢さん』と言いました。私は『だいじょうぶです。それに予約や先着順がもしあったら泣くような事になってませんから』なんて返事して、オーナーさんはこれはダメだと言うように首を振っていました。

 

――失恋かー。かわいそうに。


――決まってないけどね。


――決まってるさ。男はね、気になった女の顔を忘れたりしないからね、絶対。忘れてるのは脈がない証拠だよ。なあそうだろ、ミキヤ?


ミキヤは返事を濁して席を立った。


――二曲目まで決まった所で残り時間とCMとの配分を確認しますね。





――ね、沙子さん、その色あせた水色の箱は何なの?


 DJシュウの言葉に、沙子ははっと自分の前にある水色の箱に目を留めた。それは打ち合わせの前に寄った別棟の資料室から持って来た物だった。


――これ、ね。不思議なの。もう処分してあるはずの過去に終わった番組宛ての葉書の束が入っているのよ。


――消印はバラバラだけど、どれも二十四、五年前だな。あの俳優さんがパーソナリティーやってた番組だ。関東から毎週来てた…。

あ、これなんか封書。



 その白い封筒は葉書サイズに折りたたまれていた。文が長過ぎて普通の葉書ではおさまらないから手紙に書いてあるのだろう。そんな長文はラジオでは紹介されないと容易に推測できそうなものなのに、と沙子は思った。



 先に読んだDJシュウは放心したように言った。



これ、もしかしたら、伝説の飲み物の事かもしれない…。  ボージョ…



――ボジョレー・ヌーボーの事?  



魔法に吸い寄せられるように沙子も葉書の文を目で追った。



 

 「こんにちは。どうしても聞いてもらいたく、ペンを取りました。私は大学を卒業し、今、家族の事業を手伝っています。私はこれまで全てに恵まれていました。家は裕福で何不自由なく育ち、学校生活でも事業でもいつも苦もなく華やかな立場でいられました」

 

――生まれつき恵まれてるのを自慢してるのかしら? 私は不自由ばっかりの契約の構成作家で華やかな立場からは程遠いんですけど?


――えっと計算すると三十年前位に女子大生だったリスナーなんだよ。ほぼ自分と同じ世代だけど、あの時代、家庭に恵まれてた女性って割とそんな感じだったから。


――ふーん…。


 沙子は読み進めた。


 「でも今の私の幸福は表面的だと思うのです。私にはいつも、もう一つの苛酷な人生があると感じていました。信じてもらえないかもしれませんが、これから話す事は紛れもなく真実なんです。



 私には物心ついた頃からよくみる夢がありました。ストーリーのある夢です。それも短いストーリーではなく、とても長いストーリーなんです。なのでいっぺんにみるわけではなく、いつも途切れ途切れにみているのです。でもそのストーリーは一貫していて、変わる事はありません。

 幼い頃は意味が分からず、でも何か秘密の幸せな場所があるような気がして、その夢をみると得した気分でした。でも長いストーリーの中には怖い部分もあってそんな部分の夢をたまたまみると、うなされ、翌日には幼稚園や学校を休む事もありました。だから両親は私の事を神経質な子どもだと思っていたようです。

 成長していくに連れ、その夢はただの秘密の幸せな場所でなく、夢を通じ、ときめきや深い愛情を知り、心の拠り所となっていったのです。そしてきっとこれは今の人生が始まる前の私の話なんだと確信するようになりました。

 その夢の中では私はこの国ではないどこか異国の風光明媚な場所に住んでいます。東洋の異国といった感じで、時代は現代よりもかなり遠い昔です。国の名前をなぜか夢の中ではどうしても覚えられないのです。

 私に親はなく、広い庭園のある宮殿のような敷地で育ちました。そこで子どもの頃から小間使いのような事をし、使用人となるために育てられたのです。何人か、私と同じような少女達がいましたが、その中には私のように親の顔も知らない子も数人いました。後は親から預けられた子達です。

 教育係のような中年の女性から、そこでの生活全般について厳しく躾けられ、教えられて成長しました。それでも恐れの感情より、確かな信頼の気持ちがありました。

 宮殿の中には貴族のような人達も暮らしていて、着ている服も比べ物にならない程豪華でした。私は他の同じ身分の子みたいに、豪華な服を着られる子がそれ程うらやましいとは思いませんでした。でも彼らがしている学問にはとても興味がありました。時々、本を抱えて師と言われる人の住む離れに入って行く姿を見るとむしょうにうらやましくなったものです。彼らの要らなくなって捨てたテキストのようなものを手に入れると私は何とか文字を覚えようとしました。教育係の女性は、そんなものを覚える必要はないと言いつつも、私の密かな学問を応援してもくれました。

 十三、四才になった頃、私達は三つのグループに分けられました。この敷地を出て行き、今後は外で働かなければならない者、敷地内で下働きをする者、そしてこの敷地内で貴い身分の方達の看護や警備に携わる部署に配属される者です。才能を認められばそれだけ後のグループになります。私は努力家のため才能を認められていて、一番後のグループに振り分けられ、看護を覚える事になりました。

 でも私はその時少し、最初のグループがうらやましかったのです。なぜなら彼女達はたとえ下働きであっても、外の世界の、家族の住む家という場所でこれから暮らすのです。家族がどんなものなのかは、一年に一度か二度、祭りの日に訪れる町で見て何となく知っていました。仲良さそうに寄り添う男女と楽しそうに笑う子ども達。この幸せそうな人達が家族なのだと。

 とにかく、この部署への配属が結果的に私の運命を分ける事になりました。そこに配属され一年程が過ぎた秋の日、木の葉が夕日の色に染まる頃、私は呼び出され、重い病人の看護にあたらなくてはならないと言われたのです。私は身が縮まりそうな思いでした。なぜならその頃私が看護にあたる病人は、とても軽い病か、逆にもう助かる見込みのない重い病かのどちらかだったからです。この場合、後者である事は決まりきっています。さらに驚いた事に、通された部屋に横たわっていたのは、私と同年代の少年でした。幼い頃から遠目に数度見た、ヒョロリと背の高い、人懐っこい笑顔の貴族の少年です。

 彼は顔色は蒼白で、話が出来ないばかりか呼吸さえままならないといった感じでした。親族の面会もほとんどなくなりました。後で聞いたところでは流行り病が疑われていたからだったようです。

 私は誠心誠意彼の看病をしました。一日中一緒にいる彼が家族というものであるように思えたからです。たとえそれが時に重労働であったとしても。

 そのかいあって、助からない命と囁かれていた彼は徐々に回復していきました。真冬の寒さが少し和らいで陽射しを取り戻した頃、少し置き上がって水を飲んだり言葉を発したり出来るようになったのです。

 それからの回復は早いものでした。やがて彼は会話をし、微笑み、好き嫌いなく何でも食べるようになりました。 

 そして長い冬が終わり、屋敷が春の陽射しに包まれる頃、彼は歩けるようになりました。敷地内に小高い丘があり、そこには桃のような花を咲かせる木がたくさん植えられていました。そこで彼が杖をついて歩く練習をするのを手伝いました。温かで穏やかな笑顔が回復の一番の証しでした。

 私達は会話し、お互いの知らなかった日常生活の事、敷地内に住む人達の噂、部屋から眺められる風景…空の色、虫や鳥達の事、植物の種類、花の名前等、何でも話し合いました。生まれて初めてこんな会話が出来た友で、生まれて初めて心から楽しいと感じられる毎日でした。

 当時はこんな日々がずっと続くといいとひたすら願い、そんなささやかな希望を糧に生きていましたが、それは淡い幻想でした。良い方向にも悪い方向にも物事は変わりつつありました。 





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