いまやあの時のことを話すべきときが来た。

 いまやあの時のことを話すべきときが来た。あの日、学校帰りに立ち寄った駅前の書店で爆発が起こったその時、君が経験した出来事のことを。その日の君は学校を引けると海外線沿いのいつもの帰り路とは別の方向に向かって歩き出した。行先は学校の最寄り駅の前にあるビル。そこにはこの近辺で一番に大きな書店が入っていて、君も時折学校帰りに寄って書棚を一時間ほども眺めていくことがあった。校門を出た君は同じタイミングで下校する生徒たちに混じって一人歩いていく。いつもと違う路なので周りを歩く生徒も見慣れぬ顔が多い。普段は帰り路の違うクラスメイトと顔を合わせてしまったらどうしよう、気まずい思いをしはしないだろうか。そんな想像に怯えた君はなるたけ周りの生徒と目を合わさぬよう俯きながら進んだ。ときどき電柱にぶつかりそうになりながらふらふらと歩く君。その横を一台のコンパクトカーが通過していく。運転しているのは君の所属する文芸部の顧問、五十路の国語教師だ。彼はこれから親戚と会うために待ち合わせ場所の駅前に向かっているところだった。しかし君も顧問もお互いの存在に気づくことはない。君は基本的にずっと1メートル先の路面だけを見つめていたし、顔を上げても顧問の運転するコンパクトカーは誰の物とも知らぬたくさんの車の中のひとつ、日常の風景を構成する一事物に過ぎなかった。同様に、顧問にとっても君は風景の一部なのだった。住宅街の中の細い路地を縫うように歩いて行く。路はやがて駅前からまっすぐ伸びる片側2車線の目抜き通りにぶつかる。あとは通りに沿って進んで行くだけでやがて駅前広場に着くことになる。一定間隔で桂の街路樹が植わった歩道を君は歩く。君には知る由も無かったことだが、そのとき通過した街路樹の下を10分後に全く同じように通り過ぎた一人の男子生徒がいる。加藤だ。それは追尾では無かった。電車通学の加藤はその日もいつもと同じように学校から駅まで道のりを歩いていただけにすぎない。そしてなによりそのときの彼と君の間には、まだいかなる関心や嫌悪――それが無いところに追尾など起きようも無い――も存在していなかったからだ。しばらく歩くとようやく駅前広場に着く。広場は駅舎と商業ビルに三方を囲まれたロータリーを中心に、それらの建物を繋ぐ駅前デッキと、階段、ベンチ、バス停にタクシー乗り場、そして夕方にはムクドリが集う植木とその根本の大量のフンから成る空間だった。下校時間のためか広場のいたるところに学生の姿が見える。君は彼らから逃れるように階段を登って駅前デッキの上に出た。デッキに上がってみると視界がずいぶんとさっぱりした。目に入るのは駅舎やビルの装飾の少ない上層階や木の梢くらいのもので雑然とした地上と比べるとずいぶんシンプルだ。君はその空間が気に入った。デッキ上の何より良いところは、地上に比べてずっと人が少ないことだった。校門を出てから初めて人心地ついたような気がした君は、ビルの手前で歩みを止めると小休止をとることにした。書店のあるビルに入ってしまえばまた人ごみの中なのだ。その前にすり減った神経を回復させておかなければならない。君は近くの欄干にもたれかかると何をするでもなく風景を眺めた。目に映るのはデッキの上からは吹き抜けのように見えるロータリーと、ロータリーを挟んだ反対側のひと気の少ないデッキ上の様子。君はにわかに目の疲れを感じて瞼を閉じる。瞼の上から指で眼球を押さえつけると、暗闇の中で視神経がじんわりと弛緩していくのを感じた。そのまま暫く目を瞑っていると、次第に眼球がバターのように溶け出して眼窩から流出していくような錯覚を覚えた。君は慌てて目を開ける。幸いなことに目前に拡がっていたのは数十秒前と変わらぬ光景。だが君は何か違和感を覚えた。視界の内をよくよく観察するとその理由が判明する。さきほどまで無人だった反対側のデッキの上に小さな人影が増えていたのだ。それは小学生くらいの男の子だった。紺色のリボンが付いた麦わら帽子を被り白いシャツと短いズボンの、私立小学校の制服のような小綺麗な恰好をしている。ついさっきまで誰もいなかったのに、いつの間に現れたのだろうか。その美しい少年は書店の入ったビルの方、つまりこちら側に向かって歩いてくる。しかしその歩みは遅々としたものだった。見れば歩きながらしきりに後方を気にしている。誰かが追いついて来るのを待っているかのようだ。やがて少年は耐えかねたように立ち止まると振り返り、よく通るボーイ・ソプラノで呼びかけた。「はやく、はやく」そのとき少年の後を追うように階段を登ってデッキに上がって来る者がいた。それは一人の青年だった。彼の姿を見た瞬間、君は息を飲んだ。心の底が騒めき立ち目を離すことが出来なくなる。君は彼を知っていた。しかしそれは彼の顔つきや背格好についての確固とした記憶を持ち合わせていたということを意味しない。彼の容姿から受ける印象はぼんやりとしたものだった。今日初めて目にした気もすればこれまで何度か会ったことがある気もするというような具合。しかしそれでも君には彼が何者であるか一目で理解できた。矛盾する心証を結びつけたのは直感の力だ。君は確信していた。。君の恋人であるところの僕なのだった。理屈ではそんなことはありえないと分かっていた。君は僕が実在しないことを知っている。僕は君が思いついた単なる比喩だ。そのはずだった。しかし君はどうしても自分の直感を否定することができない。君の見ている前で僕はゆっくりと少年に近づいていく。少年も待ちきれないというように僕に駆け寄った。デッキの上で向かい合う二人。その場で二言三言なにか言葉を交わしていたが、やがて僕は後に組んでいた手を少年の目前に突き出す。少年はとっさに両手でお皿を作って僕の手の真下に差し出した。次の瞬間、僕の手の内から少年の掌に何かが落下した。鮮やかなイエローの丸っこい塊、それはレモンの実だった。少年はその果実を受け取ると、日に透かすように目の上に掲げた。日射しを受けて輝くレモン、眩しそうに見つめる少年。やがて彼は僕に屈託のない人懐っこい笑顔を返すと、レモンを大事そうに手の内に包みながら書店の方に向かって駆けていった。僕はその場に立ち止まったまま遠ざかっていく背中をじっと見つめていた。やがて少年が君の横を通り過ぎてビルの中に消えていったのを見届けると、踵を返して元来た路を引き返し始める。君はしばらく呆然としながらその様子を眺めていた。やがてはっと我に返って思う。このままでは僕を見失ってしまう。もし僕が実在しているのだとしたら、会って話さねばならないことがいくらでもある。君は慌ててロータリーを挟んだ反対側に向かって走り出した。広い駅前広場を大回りに回りながら君は走る。僕はまだ遥か先を歩いていた。だがその歩みはゆっくりとしたもので、距離はどんどんと縮まっていった。やがて君は僕の背中を数十メートル先の正面に捕える。このままいけば追いつける。そう確信した瞬間、突如背後から凄まじい轟音が沸き起こった。駅前のから悲鳴が上がる。同時に背中を衝撃波が襲った。君はつんのめって路面に倒れ込む。轟音と衝撃は間もなく止んだ。だが不意を突かれた君は動揺のために立ち上がることもできず、しばらくアスファルトの路面と睨み合っていた。やがて君は恐る恐る顔を上げる。ビルの方に目をやってみると、書店の入っている5階の窓はほとんど全てが吹き飛んでしまっていた。フロアの中からは濃灰色の煙が濛々と溢れ出している。人通りの多い駅前は騒然となり、怒号交じりの悲鳴が飛び交っていた。君はその場に座り込んだまま、顔だけを動かしながら僕の姿を探す。すると僕はちょうど階段を降りようとしているところだった。その動きは落ち着き払っていて動揺している様子は見えない。まるで爆発が起こることを予め知っていたかのようだ。君は僕を追うために立ち上がろうとする。だが動揺のあまり脚が産まれたての四足獣のように震えてうまくいかない。欄干に縋りつきながらなんとか身体を持ち上げた君は、僕の後を追い始めた。手すりに捕まりながらなんとか階段を降り切る。すると僕の背中は駅前広場を後にしようとしているところだった。君はかすれる声で叫ぶ。「待って!」僕は足を止めた。しかし君の方に振り向こうとはしない。君はふらつく足で必死に相手に近づいていく。やがて僕まであと数歩の距離までたどり着く。君は問うた。「あなたなんでしょ?」僕は背中を向けたまま暫し立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと君の方に振り向く。君はようやくにして間近で僕の顔を見た。そして全てを悟った。つまり「僕」とは

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