視界を覆っていたのは……

 視界を覆っていたのは300頁くらいの文庫本の中ほどにあるページだった。開かれた左右のページ面には文字が一つも記されていない。しかし完全な白紙という訳ではなくページ全体になにやら奇妙な、この言葉を使ってよいのであれば「模様」が、わだかまっていた。ずいぶんと奇妙な模様だった。君などの目から見ても不細工できちんとデザインされたもののようには見えない。小さな点や折れ曲がった線分が無秩序に散りばめられているだけの模様以前の模様、図案未満の図案。しかし君は無性に気になって観察を続けた。もとよりデザインでも何でも描かれたものを美的に鑑賞する能力を君は持ち合わせていない。気になったのは散りばめられた線分にどこか見覚えがあったからだ。線はどれもみな短く数ミリほどしかない。真っすぐなものもあれば湾曲しているものもあり、線の中途から別の短い線が垂直に飛び出してるものもあれば、線分の端っこだけが逆向きに折れ曲がっているものもある。さらに蛇のようにうねっているものもあれば、線と線が複雑に交差して一つの塊になっているものまであった。そこまで観察したところで君は気づく。この線や点たちは、文字に似ている。正確には文字を構成する部品――点や偏、旁などといった部首に似ている、と。いったい自分の全て蔵書のうちでこんな奇妙なページを備えたものがあっただろうか。バラバラになった文字の破片を散りばめただけの見開きページ。しかもそこには作った人間の意図というようなものが一切存在していないように見えるのだ。そのときふいに君の脳裏にある思念が浮かぶ。(これは文字の死骸なのではないか)。元々このページには普通の本と同じようにたくさんの文字が整然と並んでいたに違いない。しかしある時、文字たちに次々と死が訪れる。力尽きた文字は凝集する力を失って本来の姿を保つことが出来なくなり、そして無惨にもページの上でバラバラになった屍を曝していく……。生き埋めになっている最中だというのに、君は次々と浮かんでくる連想を止めることが出来ない。……文字の亡骸はやがて腐敗し始める。仲間たちの死骸から漂ってくる腐臭の中で、まだ息のある文字たちが蠢いている。このままでは早晩自分も死体たちの仲間入りを果たすことになってしまうだろう。生き残りたちは運命に抗うようにもがき続ける。やがてとりわけ生命力に長けたいくつかの文字がページの端に到達する。彼らはページの隙間に身体の一部を突き立てると、その優れた膂力をもって隙間をこじ開け、そして本の外へと這い出していく……。突然、腕に痛みが走る。何かが君の二の腕に張り付いている。それは鋭いかぎ爪の付いた無数の肢を肌に喰い込ませていた。君は驚いて腕を素早く振る。しかし狭い空間の中では動かせる範囲は限られている。それに相手はかぎ爪を一層喰い込ませて肌にしがみ付いたので振り払うことはできなかった。やがてそれは移動を始める。無数の肢を巧みに操って、一歩一歩確実に君の喉元に向かって移動していく。君は恐怖のために身体を大きく震わせた。目の前を覆っている本も君の身体に合わせて揺れた。そのとき君は目にしてしまった。ページの上の文字の破片が一斉に蠢き始めるところを。振動によって賦活されたのだろうか、文字の残骸たちは盛んに身体をねじり、震わせていた。まるで千切れた昆虫の肢が胴体を離れてもしばらくの間やたらめっぽうに動き続けるように。君は派手に動くいくつかの破片に視線を奪われる。するとついさっきまでは気づかなかった細部が否応なく目についた。先ほどまではただの偏や旁のように見えていたものは、いくつかの節とかぎ爪状の突起を備えその表面は繊毛で覆われていた。点のように見えていたものはごく小さい甲虫でページの上を縦横無尽に動き回っている……。君は首筋に悪寒を感じる。何かが首のところを這い上がっているのだ。やがてそれは足場を確認するかのように繊毛に覆われた長い触覚で君の輪郭をなぞる。機敏で、縦横な動きで。無数の肢が君の顎の辺りの肉をしっかりと掴んで爪先を沈み込ませる。そして肢に遅れて現れたのは、黒い光沢のある殻に覆われ、強靭な大小の顎を備えた、虫の頭部だった。意思の光を宿していない真っ黒な複眼が君を見つめる。そして君は気を失った。

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