君はたしかに自分の部屋で眠っていたのではなかったか。

 君はたしかに自分の部屋で眠っていたのではなかったか。学校から帰った後、布団の上に横たわりながら文庫本を読んでいたことまでは覚えている。しかし突然の衝撃に驚いて目を覚ました君の周りにあったのは、柔らかな布団では無かった。目の前が真っ暗で状況はよく分からないが、はっきりしているのは君は今埋もれているということだ。頭の先からつまさきまで、大量の何かが身体を覆いつくしている。いや「何か」などとぼかした言い方をする必要はない。見えなくとも臭いで分かる。君を包んでいるのは大量の本だ。その証拠にさきほどから常温に置かれた本が発するあの腐臭が鼻腔を満たし始めている。おそらく冷蔵庫の中にしまっていた本が何かの拍子に外に雪崩出てしまったのだろう。息が苦しい。顔のまわりがすっかり埋まってしまっているので満足に呼吸もできない。本の隙間から外の空気が僅かに入ってくるのだが、それも臭気のせいで吸い込めば吸い込むほど逆に苦しくなるようだ。君は本の中から抜け出すために身体を起こそうとした。しかし折り重なった本の重みのせいでとても起き上がることができない。全身に力を込めてみるが動かせたのは手足の先だけ。君はこのときになってようやく命の危険を感じ始めた。同居人のいない君が生き埋めになっていても気づく者はいない。待っていても誰も助けに来てはくれないのだ。最近は一人暮らしにもすっかり慣れ始めていた君だったが、今また急に引っ越した直後に感じていたような、寄る辺の無い心細さに襲われた。助けを呼ばなければ。君は焦り始める。そうしなければ下手をしたら本当にこのまま死んでしまいかねない。息苦しさから鈍る思考をなんとか奮い立たせて考えを巡らせる。そしてあることを思い出す。スマホだ。たしか眠る前に手元に置いていたのだ。スマホがあれば助けを呼ぶことができる。君はわずかに動かすことのできる手で辺りを探った。やがて右手の小指に何か固いものが当たる。指先でその物体の輪郭をなぞってみると手の内に収まる長方形型、スマホに違いない。君はその物体をしっかりと掴むと腕全体に力を込める。そして床と大量の本との隙間を強引にこじ開けて顔の近くまで引き寄せた。やがてスマホの画面が発する光が目の前をぱっと明るくした。君は安堵する。まるで長く真っ暗な洞窟の中を歩いていた者が天井に開いた小さな穴の向こうに青空を見出したような気分だった。本と身体の間には僅かな隙間しかなかったが、それでもなんとかスマホを操作することはできそうだ。誰に連絡しようか。君は助けになってくれそうな人を思い浮かべてみる。真っ先に思いついたのは両親だ。父か母ならば自分の部屋の中で生き埋めになっているという、ある意味馬鹿げたこの状況にも真剣に向き合ってくれることだろう。しかし問題は二人とも島に住んでいるので直ぐにこの場に駆け付けることができないということだ。そういう意味では助けを求めるのは近くに住んでいる人の方がよい。……いっそ加藤に電話してみようか。そんな考えが一瞬脳裏をよぎる。しかしすぐにそのアイデアが実行不可能なことに気づく。相手の連絡先を知らなかったのだ。君は自分の短慮さに苦笑しつつ、同時になぜ加藤のことが頭に浮かんだんだろうと不思議に思ったのだった。君はスマホの電話帳画面を開く。そしてさほど多くもない登録先を眺めながら、誰に連絡しようかと思案し始めた。そんな時、君の目に一瞬奇妙なものが映った。視界の端で何かが動いたような気がしたのだ。スマホの画面から目を離して暗闇の中を見回してみる。しかし見えるのはスマホの光を受けて幽かに浮かび上がる本の輪郭だけだった。何かの拍子に堆積した本が崩れて動いた可能性はあるだろう。しかし君が目にしたのは、そんな自然法則に基づいた物の動きでは無いような気がした。もっと不規則で無駄の多い、生き物のような動き。それも衰弱し近い将来に訪れるであろう死をじっと待っているかのような、緩慢な動きだ。君はもう一度視界のうちを見回す。しかし動くものを見つけることは出来なかった。代わりに今度は耳元で不思議な音が鳴った。固いものが弱い力で擦り合わされているような音、衰弱した甲虫が残る力を振り絞って身体を震わせているような……。何かいる。君はたしかにそう感じた。何かが自分のそばで今まさに息絶えつつある、と。そんな時、今度は君の身体が揺れた。正確には床が揺れた、地面が揺れた。余震だった。君は最初の揺れを認識していなかったから、その時は「余震」だなんて思わなかったのだが。余震と言っても揺れは本震並みだった。君の身体を覆っていた本の山も動揺しその山容を変えていく。顔のまわりでも変化が起こった。顔の近くにあった本の層が崩れ始めたのだ。するとそれまで閉じられていた目の前の本のページが開いて顔に被さる。視野の大部分がその本のページに覆われてしまった。手元のスマホの光がページを照らす。そこで君は奇妙な光景を目にした。


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