第18節 俺の身体は頭を下にして落下していく。

 俺の身体は頭を下にして落下していく。


 グラウンドを背にしているので目の前には巨大な校舎が逆さまにそびえていた。


 視界の内では転倒した教室の像が次々と流れていく。


 昼休みで人のいない3階音楽室、同じく無人の2階理科室、そして最後にカーテンが閉め切られた1F保健室の窓が目に飛び込んでくる。


 その瞬間、俺は浮遊能力を使って空中で姿勢を一回転させると窓のすぐそばに着地した。


 地面に降り立つなりすぐさま保健室の窓に手を伸ばす。


 摺りガラスに手のひらをぴったりとくっつけると横方向に力を加える。


 思った通り窓は簡単に開いた。


 今朝のうちに内側から窓の錠を外しておいたのだった。


 俺は窓枠に足を掛けるとカーテンの中に飛び込む。


 熱気のこもる室内に転がり込むと、ようやく止めていた呼吸を再開した。


 屋上からここまで数秒とかかっていない。


 俺は誰にも目撃されることなく部屋の中に入り込めたことを確信したのだった。


「……秋津は?」


 だがここで一息ついている暇はない。


 時間に限りがあるのだからすぐに作業に取り掛からねばならない。


 部屋の奥に足を踏み入れる。


 すると彼女は簡単に見つかった。


 以前と全く同じようにベットの上に横たわっていたのだ。


 窓から部屋の中に飛び込んで来たときに随分物音も立てたはずだが、全く起きる様子も無く静かな寝息を立てている。


 よほど薬がよく効いているものと見える。


 俺はベットのすぐ傍に立つと、彼女の顔を見下ろした。


 すると違和感を覚えた。


 秋津の様子がどこかおかしい。


 なぜか目の前で寝ている少女が、まるで見慣れぬ、初めて会った人間のように感じられたのだ。


 しかしどう見ても顔のつくりも背格好も秋津そのものである。


 別人であるはずがない。


(どうしてそんな風に感じたんだろう)


 俺は秋津の顔をじっと見つめる。


 すると理由がわかった。


 かつては透明感があり白磁のようだった彼女の頬が、今は全く違った様に見えたのだ。


 肌は確かに白いが、肌理きめは粗くところどころくすんだような色に見える。


 さらに以前は気が付かなかったことだが、肌の表面をうっすらと覆う毛が、カーテンの隙間から差し込む日差しに反射していやに目についた。


 それらの細部は生々しい存在感をもって俺の神経を圧迫し、彼女に触れることを躊躇させた。


(いや、単なる光の当たり具合の問題だ。

 秋津は何にも変わっていない)


 そう思おうとした。


 しかし身内からは得体のしれない不安がこみ上げてくる。


 俺は不安を振り払おうと乱暴に彼女に手を伸ばす。


 相手を抱えるようにして身体を起こすと、下に着ているインナーごと制服を強引に脱がした。


 文字に埋め尽くされた地肌が露わになる。


 俺は彼女をベットの上に寝かせ直すとお腹の辺りの文章を拾い読みした。


 前回、その辺りで読むのを中断していたのだ。


 やがてへそのすぐ下に読んだ覚えのある文章があるのに気づいた。


『私の恋人の名前は『孤独』です。声も顔も分からなくても、彼のことを本当に愛しているんですよ』


 秋津が以前、俺に語った「恋人」とは何のことは無い、ただの言葉遊びだったのだ。


 俺は一時は半信半疑ながらも秋津の恋人に見つかるのを警戒していたことを思い出し、苦笑いした。


 しかし、どこかまだ心に引っ掛かるものがある。


 彼女の恋人は本当に言葉の上だけの存在なんだろうか。


 そうだとしたら説明がつかないことがあるような気がする。


(……今はそんなことを考えている場合じゃない)


 すべきことは目の前にあるではないか。


 彼女を最後まで読み通すこと、今はそのことだけを考えればよいのだ。


 俺は呼吸に合わせて上下動するお腹とその上の文字に意識を集中させる。


 そして文章を咀嚼するように、一つ一つの文字を口の中で唱えながら、彼女を読み始めた。

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