第11節 そのとき体育倉庫の扉がけたたましい音を立てた。

 そのとき体育倉庫の扉がけたたましい音を立てた。


 俺は驚いて振り向く。


 見れば重い鉄扉が、明らかに人の手によって何度も引き開けられようとしていた。


 しかし扉はがたがたと音を立てるだけで開くことはない。


 つっかえ棒が引っ掛かっていたからだ。 


 しばらくすると扉の音が止んで、代わりに人声が聞こえてきた。


「なんで開かないんだろ。

 鍵なんて掛かってなかったよね」


「前から建てつけ悪かったからね」


「秋津さーん、いる?

 もう授業終わっちゃうよー」


 どうやら体育の授業を受けていた女子が秋津を探しに来たらしい。


 俺は息を潜めた。


「この中だと思うんだけどなー」


「もういいよ。

 先生呼びに行こ」


 その言葉を最後に声は聞こえなくなり、人の気配も消えた。


 俺はひとここち付いた。


 そして念のためにつっかえ棒を渡しておいてよかったと自分の周到さに満足感を覚えたのだった。


 しかし安心するのは早い。


 まだ十分に安全が確保されたわけではないからだ。


 さきほどの女子たちが先生を連れて戻ってくる前に体育倉庫から脱出して初めて安全圏に達したと言えるだろう。


 俺はすぐに脱出の準備に取り掛かった。


 まずは秋津だ。


 脱がせていたインナーや体操服を着せ直させねばならない。


 今回は体操服の構造がシンプルなこと、それに2回目なこともあってかなりスムーズに作業が進んだ。


 間もなく、秋津を目覚めさせることなく元の通りマットの上に寝かせることに成功した。


 次に扉に設置していたつっかえ棒も回収して元の位置に戻しておく。


 後は実際に倉庫から脱出するだけだ。


 しかし入ったときのように正面の扉から外に出るのは危険だと感じた。


 戻ってきた女子たちと出くわすかもしれないし、そうでなくとも身を隠す場所の無いグラウンドに出るかたちになるので誰かに見られてしまう可能性が高い。


 俺は扉からではなく反対側の窓から倉庫の裏手に出ることにした。


 倉庫の裏手は校舎の壁との間に挟まれた路地のようなスペースで、人から見られる危険性は格段に低いはずだ。


 ホコリがびっしりと付いた窓を音を立てないように開けると、まず頭だけ少し外に出して様子を窺う。


 予想通りそこにはひと気が全く無かった。


 俺は窓枠に足を掛けると地面に跳び下りた。


 外側から窓を閉めると、一度深呼吸してから、他の男子たちに合流するため体育館に向かうべく顔を上げる。


 その瞬間、心臓が大きく一度跳ねた。


 視線の先、数十メートル離れた位置に二人の女子が立っているのが目に入ったのだ。


 俺は彼女たちと視線が合ったように感じた。


(倉庫から出るところを見られたのではないか)


 雷雲のようにどす黒い不安が身内から湧き起こる。


 女子たちを見ると、こちらの方を向いてひそひそと何ごとか話している様子だった。


 その間、俺は蛇に睨まれた蛙よろしくその場から一歩も動けなかった。


 ひどく長い時間が――それは実際には感覚によって何十倍にも引き延ばされた数秒に過ぎなかったが――経った後、女子たちはようやく踵を返してどこかへと去って行った。


 そこでこちらもやっと金縛りが解けたのだった。


 しかしその後も俺の思考は厚い雲に覆われたままだった。


 見られたのではないか、いやまだ見られたと決まった訳ではない、しかし彼女たちの位置を考えれば見られたと考えるのが自然だ、などと終わりのない自問自答がいつまでも続いた。


 やがて思考が何週目かの堂々巡りをした後、俺はふらつく足取りでようやく体育館に向かって歩き出したのだった。


 体育の授業が終わって教室に戻ると俺はクラスメイトたちを観察してみた。


 クラスの女子の中に体育倉庫の裏手で目があった二人組がいるのではないかと思ったのだ。


 できればあの二人を特定し、そして俺が倉庫から出たところを本当に目撃していたかどうかを確かめたかった。


 しかしあの時はかなり距離が離れていたし、動転していたこともあって二人組がどんな特徴を備えていたかもよく思い出せなかった。


 俺に対する態度、視線などで特定できないかとも考えたが、女子たちは皆普段の通りで平然としていた。


 秋津のように分かりやすく動揺が態度に表れている女子は一人もいなかった。


 俺は二人組の特定を諦めざるを得なかった。


 しばらくすると倉庫で寝ていた秋津も教室に戻ってきて、その後の授業は何事もなく過ぎていった。


 次の日の朝、登校した俺が教室に入ると違和感を覚えた。


 教室の空気、雰囲気が前日と変わってどこか俺に対してよそよそしいものになっていたのだ。


 悪い予感がした。


 俺が席に着くと直後に若木、よくからかってくるあの若木、が教室に入ってきた。


 部屋に入るなり若木はこちらに視線を向けたので俺と目が合った。


 いつもの若木ならこんなときは馬鹿にするような軽口を言ってくるのがお決まりだったが、その日は違った。


 こちらと目が合った瞬間、即座に視線をずらして目の焦点を俺から自分の席の方に移したのだ。


 俺は意外に思い若木の顔をじっと眺めた。


 一見すると彼は無表情だった。


 しかしそこからは微かな感情が読み取れるような気がした。


 それは得体の知れない者に向き合うとき人が感じるような、ある種の怯えに似た感情だと思った。


 そしてそのときになってようやく、俺に関するよからぬ噂が既にクラス中に流通してしまっていることに気づいたのだった。


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