虫に刺されたかそれとも草にでもカブれたか、……
虫に刺されたかそれとも草にでもカブれたか、首筋の疼くような痒みがはじめて意識に登ったとき君はそんなことを思った。冷蔵庫の谷の底に敷いた布団の上でぼんやりとしながら、君は首を掻こうか掻くまいか迷っていた。そのときはまだ痒みは無視できるくらい微弱なものだったのだ。大量の冷蔵庫が発するコンプレッサーの振動音と排熱とで君はなかなか寝付けずにいた。布団に入る前に入浴したのに部屋が暑いせいでまたじっとりと汗をかいてしまっている。風呂上がりに冷凍庫から出して読んでいた『硝子戸の中』も、今は枕元で嫌な臭いを放ち始めていた。君は目をつぶって眠りが訪れるのを待ったが、五感を通して得られるなにもかもがそれを妨げていた。やがて君は意を決して首筋を思う存分掻きむしると上体を起こした。眠りにつくために毎日行っている一連の儀式を最初からやり直すことに決めたのだ。まず冷房のスイッチを入れると枕元の本を冷凍庫にしまい直した。さらに汗で湿った寝間着を脱ぐと、シャワーを浴びなおすために浴室に入った。蛇口をめいいっぱいひねって熱いシャワーを勢いよく出すとその中に飛び込む。しかし次の瞬間、体表に妙な刺激を感じた君は驚き飛び退いた。シャワーの当たった部分の皮膚にちくちくぴりぴりとした不思議な感触がある。まるで炭酸水でも浴びたようだった。君はシャワーのお湯を確認してみたが無色無臭で何も変わったところは無い。君は首を傾げながら再度シャワーの中に身を投じた。やはり全身に微かに痛いようなこそばゆいような妙な感触がある。しばらく我慢してシャワーを浴びながら、君は意外と気持ち良いかもしれないなどと暢気に考えていた。しかしシャワーから上がった後に地獄が待っていた。全身を猛烈な痒みが襲ったのだ。もはや眠るどころの話では無かった。君はたまらず全身を掻きむしった。手が届く限りの場所に爪を立てて、手の届かない場所にも無理やり手を伸ばして引っ掻いた。全身の肌が赤く腫れあがり、引っ掻いた跡からタマネギのような臭いのリンパ液が滲み出す。しかし痒みは一向に収まらない。結局、君は一晩中身体を掻き続けねばならなかった。何十回となく爪でがりがりと皮膚を削っていくうちに、君は自分の腕にいつの間にかミミズがのたうったような筋状の赤い腫れが浮き上がっているのに気づいた。だが痒みで頭がいっぱいになっていた君はその変化をあっといまに閑却して全身を引っ掻く作業に没頭した。やがて明け方近い時間になってようやく、君は痒みと極度の眠気に同時に襲われ気を失うようにして眠りに落ちた。翌朝、君はいつもよりも5時間も遅く泥のような眠りから目覚めた。痒みはまだ少しくすぶっていたがほとんど収まっていた。君は脂汗をかいてべたべたになった顔を洗うために洗面所に向かった。途中、壁際に置かれた姿見に映った自分の姿を脇目にした。そのときの君は一晩中身体を掻いていたせいかほとんど裸に近いような恰好だった。しかし姿見に映っていた自分は全身黒ずくめだった。見間違いかと思って鏡の中の自分を凝視する。そして君は、自分の肌が大量の黒い文字に埋め尽くされていることに気づいたのだった。次の日さんざん迷った挙句、君は登校することにした。身体の文字を人に見られるのは絶対に嫌だったが、結局まじめな君は学校をサボる罪悪感には勝てなかったのだ。学校には黒いインナーとストッキングを着こんで行くことにした。それらを脱がない限り、人から肌を見られる危険は無いだろう。いくら君が教室で存在感が無いといっても、さすがにその日は目立つことになった。体育の時間もインナーを脱がないで汗だくになっている様子を見れば誰だって奇異に思うだろう。お昼休み、普段はほとんど話さないクラスの女子から突然話しかけられた。「秋津…さん、どうかしたの? 急に制服の下にそんなの着てきて、体育のときも脱いでなかったし」「い、いや、あの、その……」急に話しかけられた君は軽いパニックになった。「昨日までそんなの着てなかったのに、急に、変だよ」問い詰められた君はなんとかごまかそうとするが、言葉がちっとも喉から出てこない。やがて君は返事をするのを諦めて、えへへと引き攣った作り笑いを浮かべ答えを濁した。女子はそんな君の様子を険しい顔つきで眺めていたが、やがてぷいと自分のグループのところに戻っていった。一人で椅子に座っている君のところに、その女子のグループの話声が聞こえてくる。「なんで訊いてるのに答えないんだろ」「ああ、とか、うう、とかそんな返事ばっかり。何言ってるか分かんない」「日本語話せないんじゃないの」。君は頭が真っ白になった。俯いて机の上に広げた文庫本の上に視線を落としたが、もはや一行も頭の中に入ってこない。耳を覆いたかったが彼女たちに見られていると感じて、それもできない。君は心を塗り潰していく悲しみに、ただ耐えることしかできなかった。でも本当は君がそんな我慢をすることなんてないのだ。僕は君が悪くないことを誰よりも知っている。クラスの女子たちは君のことを誤解している。寡黙な人間というのは、言葉を少ししか持っていない者のことではないのだ。むしろ寡黙な人間の内側には、おしゃべりな女子たちなどよりも遥かに大量の言葉が、いつだって渦巻いている。彼女たちにはそのことが理解できないのだ。だから気に病むことなんて無い。君は
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