変化はあの爆発から一週間ほど経った頃に始まった。

 変化はあの爆発から一週間ほど経った頃に始まった。学校から帰ってきて下宿の部屋で読書をしていた君の鼻は、その日初めてあのかすかな異臭を感じ取ったのだ。それはずいぶんと曖昧な臭いだった。動物的な臭いのようであるがどこか植物的でもある、強いて例えるなら小動物の死骸から漂ってくる臭いに似ていたがそこまであからさまな悪臭でもなく、気づかなければいつまでも気づかないが一度意識してしまうとずっと鼻腔の中に居座って神経に障り続ける、そんな類の臭いだった。君はその臭いをいつか嗅いだことがあったような気がした。豚のように鼻を鳴らしながら部屋の中を嗅ぎまわっていると、やがてある記憶が甦ってくる。まだ島にいた頃、家の軒先に小指の先ほどの大きさの甲虫の死骸が落ちていたことがあった。君はなんとなしにその死骸を手に乗せて観察を始めた。ちぎれて奇数本になってしまっている肢や、くすんで光沢を失った鞘羽なんかを一通り観察した君は、今度はそれの臭いを嗅いでみた。死骸からはほとんど臭いがしなかった。妙に気になった君は鼻がくっつくほどに死骸を顔に近づけてしつこく臭いを嗅いだ。そしてようやく、かすかな死臭を嗅ぎ取ったのだった。部屋の異臭はそのとき嗅いだ臭いに似ている、と君は思った。君は部屋の臭いをどうしたものかと考えた。何か手を打とうかとも思ったが、臭いは気になるものの耐えられないほどの悪臭でもないし、それにどうせそのうち自然と消えてしまうだろう、そんな風に考えた君はとりあえず放置することにした。しかし臭いはその後、何日経っても消えることは無かった。換気をすれば一時的には臭わなくなるが、窓を閉めてしばらくするとまたどこからか漂ってくる。消臭剤を置いてみてもまだ臭う気がする。気にするからいけないんだ、気にしないことだと自分に言い聞かせてみたが、そうすると余計に気になりはじめて次第に臭いのことしか考えられなくなる。やがていい加減にイライラしてきた君は臭いの元を突き止めようと決心した。ある日、君は部屋の中を徹底的に調べた。棚をずらしカーペットを剥いで臭いの元を探す。しかし結局、それらしい物を見つけることはできなかった。半日掛けの大仕事が徒労に終わってしまうと、ふてくされた君は寝っ転がって読書を始めた。本のページを開くと、またあの臭いがぷんと鼻をつく。そのとき君はある可能性に思い至る。君は開いた本のページを顔に押し当てると思いっきり息を吸い込んだ。すると予想通り、ひときわ濃い例の臭いが鼻腔を満たしたのだ。臭いの元は本だった。大量の蔵書から臭いが空気中に滲み出してきていたのだ。原因が分かると君は困り果てた。臭いは気に障るが、だからといって大事な祖父の蔵書を捨ててしまう訳にもいかない。君は何のよい考えも思いつかずそのまま何日かを無為に過ごした。そしてある日、よく晴れたせいで前日から急に気温が上昇したその日、学校から帰った君が下宿のドアを開けた瞬間、凄まじい臭気が部屋の外に溢れだした。例の臭いが何十倍にも増幅されて部屋の中に充満していたのだ。熱と悪臭のこもった部屋に入った君はすぐに換気をしてその後にク―ラーのスイッチを入れた。しばらくすると部屋の空気は冷やされて同時に異臭も弱くなっていった。自然、君は臭いと室温との関係を疑った。蔵書から数冊の本を無作為に選ぶとそれらを冷蔵庫の中に入れてみた。数時間後、冷蔵庫の中からすっかり冷えた本を取り出すとその臭いを嗅ぐ。案の定、本からは例の臭いがしなくなっていた。君は爆発事件の前にはまったく気づくことのなかった事実を、つまり本はナマモノであるという事実を認めざるを得なかった。それからの君の行動は迅速だった。近所のリサイクルショップを何軒もまわり捨て値で売られていた中古の冷蔵庫を大量に買い集めた。そしてそれらで狭い部屋の壁を埋め尽くすと蔵書を片っ端から冷蔵庫の中に突っ込んでいった。全ての本を冷却し終えると君の鼻腔は久しぶりに例の臭いから解放された。本がナマモノになったことで君の生活にも変化が生じた。まず生活スペースが激減した。ワンルームの面積の大部分が本を冷やすための冷蔵庫に占領されてしまったのだ。君は両側を冷蔵庫に挟まれて通路のように細くなったスペースに布団をしいて寝起きしなければいけなかった。本の持ち歩きにも気を使わねばならなくなった。朝、冷蔵庫から本を取り出して学校へ持って行くのだが、お昼を過ぎたあたりから本が少しづつ臭い始めてしまうのだ。君は観察から自分以外の人間が本の臭いを感じ取ることができないことにすぐに気づいたのだが、どうにも気になって読書に集中出来なくなってしまった。一度は釣り人が使うようなクーラーボックスに本を入れて登校しようかとも考えたが、あまりにも目立ってしまうだろうからと断念せざるを得なかった。本の臭いを感じるようになって不便になったことは多いが、楽しみも少しだけ増えた。風呂上がりに冷たい本を読むことの気持ちよさを知ったのだ。その頃の君の楽しみは熱いシャワーを浴びた後、冷凍室からキンキンに冷えた漱石を取り出して読み耽ることだった。その悦びといったらこれまで経験したことの無いものだった。そうして君は異臭問題に一応の折り合いを付けることに成功した。しかし落ち着く間もなく、次なる変化が君の身体に現れた。

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