第20節 翌日、学校の休み時間になると圭太と「先生」はどちらからともなく……
翌日、学校の休み時間になると圭太と「先生」はどちらからともなく廊下の片隅で落ち合った。
美々面をどうするか話し合うためだった。
口火を切ったのは圭太だ。
「もうしばらく彼女を預かろうと思うんです」
予期していたのと正反対の言葉に先生は驚きを隠せなかった。
「本当かね」
先生が怪訝そうに訊ねると、
「ええ」
圭太はこともなげに答えた。
すると先生は満面に喜色に浮かべて、
「そうかそうか。
ありがとう、恩に着るよ」
そう言って上機嫌で圭太の肩を叩いた。
浮かれた様子の相手を見て圭太は内心、複雑な感情を抱いた。
そんな圭太の気持ちも知らず先生は媚びるような調子で、
「お前ぐらいの年頃なら遊び歩きたいこともあるだろう。
そういうときは一時的になら私があの子を預かってもいいんだよ。
今日はどうだね。
帰ってから予定はあるのか」
「いえ、今日は家にいるつもりです」
「……そうか。
預かって欲しいときは遠慮なく言うんだよ」
そう言うと先生は軽々とした足取りで職員室に戻っていった。
圭太はその背中を寂しそうに眺めていた。
圭太が苗字を付けずに単に「先生」と呼ぶとき、とりわけその言葉が指示するところの五十がらみの男、圭太の通う中学校の国語教師であり文芸部の顧問であり、そして圭太の父親からその後見人を任されていると自任しているその男は、学校での仕事を終えひとり自宅の書斎にいた。
男は寝間着にしている浴衣を着て、愛用の安楽椅子に身を預けながら古い小説を読んでいた。
就寝前の読書は本来、彼にとってもっともリラックスできる時間だった。
しかし今夜は違った。
男は落ち着かぬ様子で頻繁にページから目を離しては時計を眺めたり、老眼鏡を外して丹念にレンズを拭いたりしていた。
やがて彼は時間の歩みの遅さに堪えかねたように立ち上がると、部屋の中央に置かれたテーブルに近づいていく。
テーブルの上には睡眠薬の錠剤の入った包装シートが置かれていた。
薬は既に残り四分の一ほどまで減っていた。
彼はそこから2回分の量の錠剤を取り出して掌に乗せると、一口で飲み込んだ。
部屋の明かりを消すと再び安楽椅子にもたれかかる。
目を瞑ると早くも眠りの気配が訪れて来る。
(次に目を開けたときは、彼の部屋の中だろう)
男はそんなことを考えながら押し寄せてくる眠気に身を任せた。
「美々面」が目を覚ましたとき、部屋の中は真っ暗だった。
圭太がまだ起きているだろうと思っていた彼女は軽く落胆した。
圭太が寝ているときに目を覚ましてしまうという失敗を何度か繰り返して、彼の就寝時間にだいたいの目途を付けていたつもりだったが予想は外れてしまったようだ。
彼女は圭太の姿を求めて暗闇の中で目を凝らした。
はじめは暗くて何も見えなかったが、目が慣れていくにつれ徐々に部屋の様子が分かってくる。
すると違和感を覚えた。
いくら暗いとはいっても何度も訪れたことのある圭太のアパートだから、「美々面」には大体の部屋のつくりは分かっているつもりだった。
しかしその部屋は、圭太のアパートのどの部屋とも似つかぬように感じられたのだ。
彼女が身内からじわじわと湧き上がってくる不安の正体を測りかねていると、外の通りを走り抜ける車のヘッドライトが一瞬だけ部屋の中を照らした。
そのとき、目の前の空間に誰かが座っていることに気づいた。
圭太ではなかった。
それは老いた男だった。
男は木製の椅子に、大きく頭をうな垂れた状態で座っていた。
眠っているのだろう、浅い呼吸に合わせて肩がわずかに上下動している。
着崩れた浴衣の裾からは筋張った脚が覗き、そこからひげ根のような細い毛がまばらに生えていた。
彼女の目には、その男はひどく醜いものとして映った。
「なんだこれは」
彼女は眉根を寄せて吐き捨てるように言った。
そのとき背後から誰かが近づいてくる気配を感じた。
振り返ると、そこにいたのは圭太だった。
彼女は戸惑った。
圭太がいるということは、やはりここは彼のアパートなのか。
しかしそうだとしたら椅子に座っているこの男はいったい何者なのだろうか。
彼女は訊ねた。
「この人は誰?」
すると少年は悲しそうな顔をして答えた。
「あなたですよ」
その言葉を聞いた瞬間、「美々面」の視界は暗転した。
圭太は突然意識を失って崩れ落ちた美々面を抱きかかえるとソファに寝かせた。
安楽椅子の方に向き直ると、「先生」は眠りから覚めようとしているところだった。
先生はうな垂れていた頭をゆっくりと持ち上げると、眠たげな目で圭太を一瞥した。
そして何かを悟ったように、全身を脱力させて背中を深く椅子に沈み込ませた。
圭太は言った。
「あなたは自分と美々面の人格を入れ替えることができるんですね」
先生は宙空をぼんやりと眺めたまま黙っていたが、やがて、
「やはりお前は利発な子だな」
そう言って圭太の言葉を
圭太は自分の疑念が正しかったことを知った。
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