第21節 「どうしてですか」
「どうしてですか」
圭太は先生に向けて思わずそう言った。
言った後で、自分の言葉のすいぶん曖昧なことに気づいた。
しかし彼にはそれ以上のことが言えなかった。
具体的な言葉を使って問いただせば、帰ってくるのは具体的な答えだ。
彼にはそれが恐ろしかった。
だから一言口にしただけで、後はおし黙ってしまった。
圭太は先生が何か言うのを待った。
しかし相手はなかなか口を開こうとしない。
暫し沈黙が部屋を支配したあと、ようやく先生の口から出てきたのはこんな言葉だった。
「あの日、私は親戚からうさぎを預かることになっていてね」
脈絡なく始まった話に圭太は戸惑う。
だがとりあえず黙って聞いてみることにした。
「なんでも長い旅行に出掛けるというので、その間飼っているうさぎの面倒を見てくれということだった。
私は動物なんぞ飼ったことが無かったから最初は断ったんだ。
でも相手がどうしてもというのでね、仕方なく預かることにした。
駅前で親戚と待ち合わせしてうさぎの入ったケージを受け取ると、私はその足であの本屋に寄った。
うさぎの飼育書でも買って帰ろうと思ったのだが、私はそこで、加藤君とまったく同じ体験をしたんだよ」
「爆発ですか」
「そうだ。
書店まで来たものの大きく重いケージを持て余した私はベンチに座って休憩していた。
あれは確か……そうだ、私の目の前を不思議な少年が通り過ぎたときだった。
小学生くらいの、美しい少年でね。
よく磨かれた靴を履いていて私立の学校の制服なのだろう、真っ白なワイシャツに紺の短いズボンを吊りベルトで吊っていた。
頭にはやはり紺色のリボンが巻かれた麦わら帽子のような制帽を被っていたな。
その子は両掌で何かを大事そうに包み持っていた。
よくは見えなかったが、なにやら小さくて丸いもののようだった。
目で追っていると少年は文芸書の書棚の間に入っていった。
そこには小さな子どもが興味を持つような本など無いだろう?
何をしているのかと気になっていると、突然にそれが起こったんだ。
おそらく少年が消えた方向からだったと思う。
突然閃光が湧き起こって目の前が一瞬真っ白になった。
そして直後に、凄まじい衝撃と熱風が私のもとに殺到したんだ。
私はベンチから転げ落ちた。
床の上に転がった私の背中にたくさんの細かい物体が、バケツの水でもひっくり返したように降ってきた。
見ればそれは大量のガラスの破片だった。
私は驚いて思わず近くにあったうさぎのケージを抱きかかえた。
うさぎもひどく興奮していてケージの中で跳ねまわっていたよ。
何が起こっているのか分からず、私はケージを抱えたままその場でうずくまった。
安全になるまで下手に動かずにじっとしていようと思ったのだ。
しかし辺りはひどい熱気で満足に息をすることもできなかった。
このままでは危うい、と思った時にはもう遅かった。
私の意識は徐々に薄れていき、やがて気を失った」
先生は本当に体験したかのようにありありとその時の状況を語った。
「意識が戻ったとき、私は爆発の起こる前と全く同じように書店のベンチに座っていた。
不思議なことに店は爆発の起こる前と何も変わらず、周囲の客も何事も無かったように本を眺めていた。
爆発の痕跡など何一つ残っていなかったよ。
ただ爆発の起こる前と変わっていたことが二つあった。
爆発の直前に見たあの不思議な少年が本屋から姿を消していたこと、もっともこれは単に見失っただけかもしれんが。
そしてもう一つ。
ケージの中にいたうさぎが姿を消し、代わりに小さな女の子が――美々面が私の隣に座っていたことだ。
私はその子を家に連れて帰ることにした。
躊躇など無かったよ。
だって親戚から面倒を見るように頼まれていたんだからね」
「それって、つまり彼女は……」
「美々面というのは親戚がペットのうさぎに付けた名前だよ」
圭太はソファで横になっている美々面と、書斎机のそばに置かれているケージを順番に見た。
前にこの書斎でケージを目にしたとき、実際に動物が入れられていたのだろうという印象を持ったのを思い出す。
きっとこのケージの中にうさぎ、先生の話によれば美々面、が入れられていたのだ。
「私はあの爆発の後もそれまでとなんら変わらない生活を続けた。
加藤君のように自分の体験を周りに言いふらしたりはしなかったよ。
私には分かっていたんだ。
あの爆発はとても個人的な体験なんだ。
他人に話したところで理解してもらえるようなものではないんだよ。
そして彼女と暮らすようになってしばらく経った頃、偶然に私は自分の能力に気づいた。
深い眠りに落ちている間は彼女と入れ替わることができるという能力にね」
先生はそこまで話すとくたびれたという様に首を振った。
話を聞いた圭太の内で、これまで抱いていた疑問が次々と氷解していった。
先生の家の書斎で美々面がしきりに辺りを気にしていたのは、先生と入れ替わったときに見た光景――彼女は夢の中の情景だと思っていたが――と似ていたからだろう。
美々面がさらわれた時に先生が連絡手段を持っていない彼女のいる場所に見当をつけられたのも説明がつく。
美々面と入れ替わることで、彼女が屋上のような場所で捕まっているのを実際に確認したのだろう。
先生の話によって圭太の中にあった違和感は消えて行った。
しかし今の話の中には、圭太が聞きたかった答えは含まれていなかった。
圭太は恐れを感じながらも、ある種の義務感のようなものに背中を押されて、再度問うた。
「どうしてですか。
どうして、美々面を僕に預けたんですか」
すると先生の表情に一瞬怯えのようなものが走った。
先生はしばらく黙り込み、ややあってから憔悴したような声で言った。
「何故そんなことを訊くのか」
いつもの先生ならそんな質問を質問で返すような言い方はしない、と圭太は思った。
何を言うにも直截的で、遠慮が無く、またそんな自分のもの言いをどこか誇ってさえいる、それが圭太の知っている先生だった。
圭太は先生が逃げていると感じた。
だからちゃんと自分の問いに答えるまで、いつまででも待ってやろうと思った。
圭太が黙り先生も口をつぐんでしまったので、部屋には痛いような静寂が訪れた。
聞こえるのは呼吸の音ばかり。
沈黙が苦手な圭太だったが、このときは不思議と苦に感じなかった。
反対に先生は、この終わりの見えない問答に苦しんでいるようだった。
沈黙が続けば続くだけ、先生は見るからに疲弊していった。
座っているだけだというのに呼吸はどんどん浅く、繁くなり、痩せた身体は無意味に痙攣的な微動を繰り返した。
やがて先生は何度も呻くような息遣いをした後で、堪りかねたように悲痛な声を上げた。
「頼むから」
そして両手でゆっくりと顔を覆いながら、
「これ以上私を苦しめないでくれ」
引き絞るような声でそう言った。
先生は背中を丸め、両膝をぴったりとくっつけた。
まるで自分の体を小さく小さく折り畳もうとしているかのようだった。
先生にとっては、この場に存在していること自体が耐えがたい苦痛なのかもしれなかった。
圭太にはそんな先生がひどく卑小な存在に見えた。
やがて先生は再び口を開いた。
「そんなに理由が問題だと言うのなら、私にも教えてくれ」
「教えるって、いったい何を……」
圭太が聞き返すと先生は痛切な声を上げた。
「どうしてあの時、浴室でキスをしてくれ無かったんだ」
圭太は息を飲んだ。
先生は震える声で続けた。
「私からでは意味は無いのだ。
君からだ。
君からでなければいけないのだ」
圭太は何と言えばいいか分からず、黙っていた。
すると先生は哀願するように、絞り出すような声で、
「キスしてくれ」
そう言った。
圭太は、結局、何の言葉も返すことができなかった。
しかしその沈黙は、雄弁に拒否の意思を示していた。
拒絶された先生はしゃくりあげるような奇妙な声を上げて体を一層小さく折り畳もうとした。
そんなとき、奇妙なことが起こった。
突然どこからか一匹の白兎が先生の元に駆け寄ってきたのだ。
うさぎは先生の足元で後ろ足立ちになると、両手で覆われた先生の顔を心配そうに覗き込んだ。
先生もそれに気づいてうさぎの方を見た。
うさぎは先生を慰めようとしているかのように前足で先生の膝を何度も掻いた。
先生はそんなうさぎの様子を見ると顔を歪め、再び顔を覆うとあとは全く動かなくなってしまった。
表情は見えなかったが、声を上げずに泣いているのかも知れなかった。
圭太は部屋の中を見回してみた。
先ほどまでソファで横になっていた美々面の姿は無くなっていた。
知らないうちに部屋から出て行ったような様子も無かった。
圭太は先生の脚に寄り添っているううさぎの方を見た。
するとうさぎも圭太の方を向いた。
ふたりの目が合った。
うさぎは無表情だったが、圭太は不思議と彼女が考えていることが分かるような気がした。
(この人にはわたしが付いている、だから圭太はもう行ってもいい)
彼女はそんなことを圭太に伝えようとしている気がした。
圭太は彼女に、分かったよ、と目配せをすると、先生の書斎を後にした。
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