第19節 圭太は足早に夜路を歩いた。

 圭太は足早に夜路を歩いた。


 行く当ては無く、したがって急ぐ必要も無かったが、何かに急かされるように深夜の住宅街を徘徊し続けた。


 歩きながら、先生に何度も電話を掛けた。


 すでに0時を回っていたが遠慮する必要など無いと思った。


 自分がこれほどまでに心乱れ、我が家から追い出されるようにして夜路をさ迷っているのも、すべてあんな得体の知れない少女を押し付けてきた先生に原因があるのだから。


 先生はなかなか電話に出なかった。


 出るまでいつまででも鳴らしてやろうと発信を続けていると、何十コール目かでようやく電話口から先生の声がした。


「……なんだこんな時間に」


 先生の声は明らかに眠そうだった。


 しかしそんなことは圭太にとってはどうでもよかった。


「これ以上、彼女と暮らすのは無理です」


 単刀直入な圭太の言葉に先生は驚く。


「突然何を言いだすんだ。

 何かあったのか?」


 先生は訊ねたが、圭太はまともに答える気などなかった。


「もう無理なんですよ。

 いや、最初から無理だったんだ。

 今すぐ彼女を引き取りに来てください」


「今すぐって……、急にそんなことを言われても困る。

 こちらの都合も考えてくれ」


 先生は気色ばんでそう言った。


「もうじき彼女の親が引き取りに来る。

 あと少しの間だけ預かってくれればいいんだ」


 圭太はもう何度聞いたかも分からない先生の言い訳には取り合わずに、


「ならそれまで先生で預かってください」


 淡々とそう答えた。


 先生は暫し黙っていたが、やがて諭すように、


「こんな時間に電話を掛けてくるくらいだから何かあったんだろう。

 何があったかは知らんし、話さなくてもいい。

 しかしな、お前は今冷静じゃないよ。

 そんな時にものごとを決めるものじゃない。

 ひとまず眠りなさい。

 そして明日の朝、落ち着いてからもう一度よく考えて……」


「何度考えても同じですから彼女を引き取りに来てください」


 相手の話を遮るように圭太が言い放つと、


「勝手なことを言うな!」


 先生は電話口で怒声を上げた。


 先生から怒鳴られるのはこれが初めてのことだった。


 しかし圭太の心裡は委縮するよりも、むしろより冷静になった。


「今すぐがダメなら明日の朝でもいいです。

 でも必ず引き取ってもらいますから」


 圭太は自分の声が意図したよりずっと冷たく響くのに驚いたが、そのまま言うに任せて相手の返答を待った。


 ややあってから先生は憔悴したように呟いた。


「何をそんなに恐れているのだ。

 あと少しの、あと少しのことじゃないか」


 圭太は無言を返し、先生もそれ以上は言葉を重ねなかった。


 沈黙が続いた後、先生は疲れ切った声で、


「今すぐ引き取るのは無理だ。

 明日、学校でもう一度話そう」


 それだけ言うと一方的に電話を切った。


 通話が途切れると圭太はどっと疲れに襲われた。


 とても先生に電話を掛けなおす気にはなれなかった。


 少年はいつの間にか止まっていた足を再び動かし始める。


 相変わらず行く当ては無かったが、足は自然と自分のアパートの方に向いていった。




 圭太が気まずい思いをしてアパートの前まで戻ってくると、路上に誰かが立っているのに気づいた。


 見ればそれはパジャマ姿の美々面だった。


 彼女は路の真ん中で何をするでもなく、傍に立つ街灯の明かりをじっと見つめていた。


 少し悩んでから圭太が声をかける。


「何してるの」


 美々面はゆっくりと圭太の方を向いた。


 彼女は無表情のまま呆けたように相手の顔を見ていたが、やがてとぼとぼと部屋の方に戻って行った。


 圭太も止む無く彼女の後に続いた。


 部屋に戻ってからも彼女は床に座り込んだままぼーっとしていた。


 そこには先ほど浴室に闖入してきたあの大胆な少女の面影は残っていなかった。


 圭太はまたしても起こった美々面の変化に戸惑う。


 しかし彼にはどうしても話して置かなければならないことがあった。


「もうあんなこと……浴室でしたようなことは止めてほしいんだ。

 金輪際」


 一日か数日か、あとどのくらい続くのか分からないが今後も彼女と同じアパートで生活する上でそれだけは守られなければならないことだった。


 美々面は無感興な眼差しを圭太に向けたが、そのまま何の言葉を発しようともしなかった。


 自分の頼みを聞き入れてくれるのかくれないのか、そもそも自分の話を理解しているのかいないのか、彼女の顔を見てもちっとも分からない。


 圭太は苛立ち、


「僕が何を言ってるのか分かる?

 さっき君は僕のいる浴室に入ってきて……」


 そこまで言ったところで美々面はもごもごと口を動かす。


 聞き取れなかった圭太は話すのを止めて彼女がもう一度言うように促した。


 彼女は呟く。


「分からない」


「分からない?」


 圭太は同じようなやりとりを今日学校でしていたことを思い出した。


「浴室での記憶が無いってこと?」


 彼女はこくりと頷く。


 そして何か思案している風に俯いていたが、やがて顔を上げて次のように語りだした。


「夢を観てたの。

 急に眠くなるときはいつも決まって同じ夢。

 わたしは暗い部屋に一人きりで座ってるの。

 背中の椅子はわたしが息をするたびにきいきいと音を立てながらゆっくりと揺れてる。

 部屋の中は暗くてよく見えないけれど、古い紙の匂いに満ちているの。

 きっとたくさんの本があるんだって、わたしはそれを確かめたくて立ち上がろうとする。

 でも体は重くってまるで椅子に貼りついたみたいに動かないの。

 立ち上がろうともがいても、椅子が少し大きく揺れるだけ。

 でもそうやって椅子といっしょにゆらゆらと揺れていると、だんだん心地よくなってきて、自然とまた眠くなっていって……」


 美々面の話を聞いていた圭太の内で、ある一つの疑念が頭をもたげていた。


 そしてその疑念に招き寄せられるように、これまで彼女に関して感じていた疑問が次々と頭の中に浮かび上がってきた。


 なぜ彼女は突然人が変わったようになり、そしてその間の記憶が無いのか。


「爆発」を目撃して奇妙な能力を得た加藤が、爆発現場で先生と彼女を見たということが何を意味するのか。


 先生の書斎に入った彼女がしきりに辺りを気にしていたのはなぜか。


 そして彼女が加藤にさらわれたとき、なぜ先生は連絡手段を持っていない美々面から「連絡があった」などと嘘を吐いたのか。


 それらの疑問はやがて頭の中で有機的に結びつき、疑念をある確信へと変えていった。


 それは加藤が宙に浮くのを実際に目にするまでは思いつきもしなかったであろう、奇妙な確信だった。


 圭太は言った。


「美々面、ひとつお願いをしてもいいかな」


 彼女は不思議そうな顔をしながら、こくりと頷いた。


「次、急に眠気に襲われたら、すぐに僕に教えて欲しいんだ」


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