第3話
「あぁ、ここかぁ」
晃は門の向こうに見える建物を見上げ、思わず安堵のため息をついた。
彼が目的地のサンライズ技術工科大学にたどり着いたのは、モノトラックの事故から二時間以上もたってからだった。
最寄り駅のそばに設けられた臨時の救護所に足首を捻挫したという真佐子を送り届け、さてどうするかなときょろきょろしていた所、目ざといメデイアの記者に捕まってしまったのだ。
三十分近くも一方的に質問攻めに遭い、ようやく解放してもらった時にはすでに九時を回っていた。
ただ、まったくの無意味、という訳でもなかった。
記者達の異常に興奮した様子からして、日本本土ではもはやそれほど珍しくもなくなってしまったこの手の話が、ここではありえないとされているのが見て取れた。少なくとも、これまでコロニーでは一度も起きたことのない事故らしかった。
(よく考えてみたら、完成して数年のモノトラックでこんな事故なんて、大問題以外のなんでもないし……)
記者の話では、重要な機構部品の劣化が考えられるらしい。
(交通インフラの劣化がほんの数年で問題になるなら、コロニー本体はどうなんだという話になるもんな)
将来環境システム工学者を目指す晃にとっても、全くの他人事と言うわけではない。
「まあそれはそれとして……」
大学ではすでに一時限目の講義が始まっており、晃が頼まれたファイルを渡す相手は講義中だった。
いや、実際はファイルのパスワードを運んで来たのだが、物が物だけに気軽に他人に預ける訳にもいかないのだ。
晃の高校では、定期的に提携大学の先生が特別講義に訪れる。今回の依頼人である神奈川技術工科大学の利根教授とはそこで出会った。
彼はサンライズ技工大の准教授と共同研究をしているのだけど、お互いの研究内容を伝え合うのにJUCNと呼ばれる大学間のデジタルネットワークを利用していた。ただしその内容を読むためのパスワードは電話やメールでやり取りはせず、彼ら自身が学会などで直接会って口頭で伝え合うならわしになっているらしい。
「いかにも、酔狂な学者のやり方だよな」
ところが、今回はどうしても利根教授の都合がつかず、
そんな大事なことを引き受けるわけにはいかないと全力で断ったけど、利根教授はニヤリと笑うと、「信用してるぞ」と言いつつ彼に強引にメッセージを託した。
晃は来年度、高校三年をスキップしての特例進学を目指していて、利根教授が大学サイドの引受人なのだ。そんな立場でどうして断れよう。思わず引き受けてしまったのだが、どうもお人好しな性格を見抜かれているだけの様で素直には喜べなかった。
彼は時間つぶしに一時間ほど構内をぶらぶらと見回った後、訪問先の研究室前に立った。
「げ、なんだこれ」
どう見てもわざわざ地球から高額な運賃をかけて運んできたとしか思えない檜の一枚板に、豪快な勘亭文字で〝有吉研究室〟と浮き彫りにされた看板が掲げられている。
彼はその一種独特の雰囲気に多少不安を覚えながらドアをノックした。
「開いてますよ、どうぞ」
思ったよりもずっと若い声が返ってきた。晃は少しほっとしながら部屋に入った。
「あの、始めまして。実は地球の利根教授から……」
彼の声は最後まで行かないうちにさえぎられた。
「ああ、茅野君ですね。有吉です。お待ちしてました。サンライズにようこそ!」
部屋の隅でコンピューターに向かっていた若い男性が立ち上がり、大きな声で答えながら大股で歩み寄ってきた。身長は晃とほとんど変わらないが、まるで研究者らしからぬ日焼けした肌のスポーツマン体型で、差し出された右手は分厚く、握手は力強かった。
「まあ、座って下さい。いまコーヒー入れます。飲めますよね?」
有吉准教授は晃に椅子を勧めると、作りつけの小さな流しに立ち、なんと手回し式のコーヒーミルで豆を挽き始めた。静かに二人分の豆を挽き終ると、次は本格的にサイホンで湯を沸かし始める。驚いてただ呆然と見守る晃に、彼は照れた様に笑いかけた。
「いやぁ、実はコーヒーがもう好きで好きで、こだわっている内にどんどん旧式にハマってしまいました。それに、これだと学生達も面倒くさがりますから、いい豆をたちまち飲み尽くされることもありませんしね」
「はあ……」
晃は返す言葉が見つからず、とりあえずあいまいに相槌を打った。その間にも沸騰したお湯はかすかな音と共にサイホンをさかのぼり、有吉がアルコールランプを消すと、今度は琥珀色の液体となって静かに下りてくる。こうばしい香りがあたり一面にたちこめ、晃は思わずのどを鳴らした。
「さあ、どうぞ」
「あ、いただきます」
カップを取り、一口飲んだ晃は言葉をなくした。彼もコーヒーは嫌いじゃなかったが、眠気ざましに合成品や安物をがぶ飲みするだけで、今やキャビア並みの贅沢品に成り果ててしまった天然物の高級豆など手に入れることすら難しい。当然、飲んだことなんて生まれてから一度もない。
でも、それでもこのコーヒーの味が特別だという点だけは理解できた。そんな彼の様子を有吉は嬉しそうに眺めている。
「これ、何て豆なんですか。って、聞いても買えるあてはありませんけど?」
「実はサンライズ3の遺伝子研で採れた新作なんだ。名前はまだついてない」
「へぇ」
二人はそのまましばらく無言でコーヒーを味わった。そして、研究室にたちこめた香り が薄らいできた頃、晃はようやく最初の目的を思い出した。
「ところで、先生からの伝言なんですが……」
「ああ、そうだったね。この部屋なら安全だから、教えてくれるかい」
「はい、先生はこう言われました。〝エイ、コンマ、ケイ、ゼロ、ゼロ、オメガ、スラッシュ、エイチ、エー、エム、エル、イー、ティー〟です。
スラッシュの後の最初のHが大文字で、後は全部小文字です」
有吉は少し考えたが、やがてニヤリと笑うと口を開いた。
「茅野君はこのファイルの中身を何だと思う?」
「さあ。ある極秘の実験データだと言ってましたが」
有吉は立ち上がり、楽しそうにコンピューターの前に歩み寄る。
「彼らしいね」
そうつぶやくと、晃の持ってきたパスワードを入力し、ファイルを開いてモニターを眺めながら大きくうなずいた。
「うん、問題ない。確かに展開できた。ところで……」
有吉は再びこちらに向き直る。
「君はサンライズコロニーにレポートを書きに来たんだね」
「そうです。特例進学のスキップテストを受けるつもりなんです」
「ああ、なるほど」
有吉はキーボードに手を伸ばすと画面を消去して再び晃の前に戻って来た。
「で、そのテーマだけど、さしつかえなければ教えてもらえるかな?」
「はあ、今の所〝低重力人工環境が人体に与える心理的、身体的影響〟の予定なんですけど」
「なるほど、つまりコロニーに住むと人はどう変わるかってことだね」
「まあ、平たく言えばそうです」
「それじゃあ、こっちにいる間、ここの研究室に自由に出入りしてもらって構わないよ。利根教授からもよろしく言われてるんだ」
「いいんですか。だいたい俺はまだ大学生ですらありませ――」
晃は慌てて断ろうとしたが、有吉はやんわりと押し止める。
「ただし、ひとつ条件がある。出来上がったレポートを我々にもぜひ読ませて欲しい」
「え?」
「実はね、我々がここで取り組んでる長期研究にも関連したテーマなんだ。だから、若い君が独自の視点でどう考えるか、とても興味がある。つまり、我々は今から共同研究者って訳だ」
「はあ……」
有吉は、いまいちすっきりしない表情の晃にいたずらっぽい笑顔で応えると、もうひとつつけ加えた。
「ところで茅野君、君は自分の持って来たパスワードの意味に気づいてるかい?」
「ええ、スラッシュの後は、続けると〝ハムレット〟という綴りになりますね」
「そう、シェークスピアの名作。古典だ。読んだ事はあるかい?」
「いえ、まだありません」
「じゃあ、滞在中暇があったら読んでごらん。おおっと、こんな時間だ。そろそろいいかな。次の講義があるので」
そう、謎めいた提案をした有吉は、それ以上詳しい説明はせずに会見を締めくくった。
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