終章6 まちぶせ

 紫苑がからっからに乾いた笑みを布団の上で見せていた頃。

 松葉邸の垣根を飛び越えて裏筋を歩いていた誘鬼は、背後から追ってくる小さな気配に気が付いて振り返った。

「あれ。気のせい……?」

 小さく首をひねり再び歩き出そうとしたところで、今度は小さな声が誘鬼の耳に届いた。

「おい」

 振り返って辺りを見回すが、声の主の姿は見えない。誘鬼に向かって言っているようではあるが、誰が言っているのかわからない。いぶかしんで口元をゆがめる誘鬼に対して、目に見えぬ声の主は居所を知らせるように小さな声を張り上げる。

「おい。おおい。ここだ」

 その声が少しばかり近くなる。それは、下から上へと上がってくるようである。

「わしらだ。おい、おまえ」

 声は横の山茶花の垣根の、ちょうど誘鬼の顔の高さにきたところで、声の主の姿が誘鬼の目に映った。

 それは、声の大きさに比例した、小さな小さな萱鼠ほどの大きさをした二匹の狐であった。

「おい、おまえ。弟じゃないやつ」

「あ? 俺のこと?」

 見覚え――はなかったが、声をかけられるような狐といったら、昨日の騒ぎで関わった兄弟の管狐くらいしか心当たりはない。

「そうだ。おまえだ。おまえ、弟ではないやつだったな」

「……そうだけど」

 間違いなく紫苑に封じられていた兄弟の管狐のようだ。昨日うまい具合に自由になれたのだからさっさと好きなところに行ったと思っていたので、まだ何事かあるのかと誘鬼は警戒の色を見せる。

「なんだよ。今度は俺に憑くつもりか?」

「……おまえにちょっかいかけたら、あの雷獣に地獄の果てまで追いかけられて、かみ殺されるわ」

「あの陽火におまえの体内の芯まで追いかけられて、灰も残らんごと焼かれるわ」

「ポチが来たのは初めてなんだけど……」

 火狩は――召喚しないと出てこないと思うのだが……。たぶん。

 滅多なことを言うなと二匹の管狐に非難めいた目で見られ、誘鬼は鼻の頭にしわを寄せる。そもそも松葉に憑いて暴れまわって茶碗や筆を壊したり、紫苑にけがをさせたのはこの二匹である。あげくとんだ騒動に巻き込まれたのだから、こちらが非難したとしても、非難されるいわれなど皆無だ。理不尽の文字を顔に貼りつけ、小さく息を吐く。

「じゃ、なんだよ。まだここから離れられないのかよ?」

「いや、そういうわけではないのだが」

 管狐はふるりと首を振った。そして小さな黒い瞳が何か言いたげに誘鬼を見上げる。誘鬼は思案気に指先で顎をトントンと突きながら、思い当たる節をあげてみた。

「あ。じゃあ、あのオバサンたち、この辺うろついてるとか?」

「……」

 束の間の沈黙。

 管狐はぱちくりと、ひとつふたつまばたきをした。

「暁と春茜は――どうしたのか、おまえは知らんのか?」

 逆に問い返された。誘鬼は知るはずもなかろうと肩をすくめ、口をへの字に曲げる。

「さあ? どっか逃げってったからなぁ。その先は知らん。……なに、あのオバサンたちに見つかるのが怖いの? どうしてもって言うなら、途中までなら連れてってやらんでもないけど――」

「……いや。大丈夫じゃ」

「ふん?」

 わずかに尻込みしているふうにもとれる間で首を横に振る二匹を見下ろして、誘鬼は小さく鼻を鳴らした。まあ、ちょいちょい見事に的を外したことを言う二匹ではあるが、一応は管狐だ。予見して危機を回避することはまま可能ではあるだろう。相手が上ならそうとは限らないかもしれないが。彼らが大丈夫だというのであれば、大丈夫なのだろう。

 二匹の様子に納得して話を切り上げようとした誘鬼に、見上げる管狐が声を張り上げた。

「いや、今回の礼をな、言うておこうと思ったのよ」

「あの若者に礼をば言うてなかったのでな」

 二匹の狐が言う。

「おまえにも世話になった」

「世話になった」

「雷獣は恐ろしかったが」

「あれは恐ろしかったが」

 雷獣の迫力を思い出したのか、管狐たちの耳がぴょこっと震えるように動いた。それから鼻先を振るように巡らせた首を、こくりと傾げてみせる。

「して、あの若者は一緒ではないのか」

「あの若者はまだ出てこぬのか」

「あいつなら中にいるけど……ああ、そういや札が貼られていて入れないんだったな。あいつが出てくるまで待っていてもいいかもしんねーけど、しばらくは出てこないかもな。またそのうち、次に会った時にでも礼が言いたければ言えば?」

 誘鬼には管狐たちをわざわざ中へ入れてやる気もなければ、紫苑を呼びに戻る気もない。戻れば鶴戯がうるさいし、伏している紫苑を引っ張り出すわけにもいかない。札は貼ったままの方が安心だ。

「ああ、そうか。それもそうだ」

 意地悪を言うわけではない。人間などよりよほど自由で勘も優れているのだ。待つとしても人間の感じる時間の感覚とは違うだろう。管狐たちもあっさりとうなずく。それを見やって、誘鬼はじゃあなと軽く片手を振るように上げて踵を返した。しかし、一歩も踏み出さないうちに管狐たちに引き留められた。

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