終章4 腕白でもいい。たくましく育ってくれれば

「仕方ないから一旦家に帰ってくるさ」

 座敷を辞した誘鬼はその足で紫苑のいる奥の間へと向かった。床に臥す紫苑の枕元にストンと腰を下ろすと、松葉との会話をかいつまんで聞かせた。いかにも不承不承といった表情を隠しもしない誘鬼の様子に、紫苑は苦笑をみせた。

「意外と素直だな」

「本家当主に報告もあるしな。簡単に文で済ませたってやり直しになるだけだし。それこそ誰かさんの言うように、紙と墨の無駄になるだけだ。何より俺の労力が」

 そう言ってプイとそっぽを向く誘鬼に紫苑はくしゃみで相づちの代わりをした。寝不足と頭痛に加えて季節外れの水浴びとくれば、ぶっ倒れるのも道理であった。白い顔で松葉邸の奥の間に床を延べ、紫苑は文字どおり寝込んでいた。

 上げられた半蔀から、高い空が見える。ゆるりと抜ける乾いた風に、色づいたもみじの葉がひらりと流れるのを目で追う。その奥にある四季桜の白い花が、陽光を浴びてちらちらと輝いてみえる。昨日の喧騒が噓のように静かだ。

「ふふっ」

 ふいに紫苑の口からちいさな笑い声が漏れる。それに対し誘鬼は遠慮することなく不快な表情を向けるが、笑みが消えることはない。

「いいものだってさ」

 くくくと笑いをこらえるように紫苑は床の中で背を丸める。

「気持ちワリィなぁ。何がだよ」

「あの占い師、おまえのかんの虫をいいものだって……っくしょん」

 昨日春茜に嫌がらせで口の中に腕を突っ込まれ、封じていた管狐を引きずり出された時のことを笑いとくしゃみの合間に口にする。

「おまえのかんの虫だぞ? 本体がこれだけ腕白わんぱくなんだ。きかん坊の核がどれくらいひどいかって話だよなぁ」

「テメェ、本人目の前によくもそこまで馬鹿にできるな」

 紫苑の暴言に誘鬼は握りしめた拳を布団にボスッと振り下ろす。しかし誘鬼の反撃は同じタイミングで出たくしゃみによって、紫苑本人が堪えることなどなかった。

「こんなマイペースで人の言うことちっとも聞かない聞かないやんちゃ坊主、手に入れたところであの占い師たちに御せるわけないって、なあ。あははは」

「……どっちのことだよ。だいたい、おとなしく言うこと聞くようなモノだったら、かんの虫なんかじゃねぇと思うけど?」

 凶悪ではないなしろ決して善とは言いがたい、暴れん坊のかんの虫を誘鬼の歳と同じ年月もの間、自分の中に封じ続けてけろりとしている紫苑は、それが遺伝的体質とはいえ底が知れない。封じながらそこからにじみ出るわずかな気が、結果、相乗効果として紫苑のもつ本来の能力に力を添えている。

「盗られそうになったくせに」

「ははっ……盗られないよ。死んでもね、渡さない……ふふっ……っくしょい!」

 どこかおかしな笑いのツボに命中したらしく、鼻白む誘鬼などお構いなしに紫苑は笑い続ける。渡さない。クスクスと笑いながら心の内で紫苑はつぶやく。

――誰にだろうと渡してなどやるものか。

「紫苑さんよ、はなが垂れてっぞ。っとに……熱が上がったか?」

 鼻紙を渡しながら、誘鬼は問うでもなくつぶやく。見たところ、体調はともかく機嫌の方はすこぶる良好のようだ。

「楽しいか?……そうかい、そりゃ結構なことだな」

 問わない問いに返されない返答を受け、そうかそうかと誘鬼はうなずいた。

「笑いの発作が治まれば、具合のほうもマシになるのかねぇ?」

 当然、返される言葉はない。ただ、押し殺した笑い声が漏れるだけだ。背を丸めていつまでもクスクスと笑い続ける紫苑に、呆れかえった誘鬼は完全に無視を決め込み半蔀の向こうを見やった。ひやりとした秋の風が頬を撫でる。

 かさりかさりと奏でられる葉擦れの音が心地よい。

 まどろむにちょうどよい日よりである。

 そういえばと誘鬼は思う。つい先日、同じようなのどかな平穏が、秋風にさらわれる枯葉のように空しく吹き飛ばされたっけと。否。秋風は秋風でも、はかなく哀愁を誘うような生やさしい風などではなく、無造作に容赦なくとっ散らかすように吹き荒れる、夏の終わりの台風さながらの暴風だった。思い出して誘鬼はげっそりと息を吐く。そんなことなど知りもしない紫苑は布団にくるまって呑気に笑い声をたてている。

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