終章3 松葉邸

「この度は、悪かったねえ」

 松葉まつばが深々と頭を下げたのは、翌朝のことだった。

夕映えの空の下、くしゃみで訪いを知らせて松葉邸の門をくぐった誘鬼ゆうき紫苑しおんの姿に、出迎えた松葉が色を無くしたのは必然であった。そろってずぶ濡れで泥にまみれ、あちこちに傷をこさえていて、ことに紫苑にいたってはたどり着いたとたんに昏倒して松葉の肝を冷やした。数人がかりで紫苑を屋敷の中へ運び込み、身を清めて着替えさせ設えた床に寝かされたが、その間一度も目を覚ますことはなく爆睡していた。

 さすがの誘鬼もくたびれて、その日は大人しく松葉の屋敷に世話になった。夕餉をとりながらあくび混じりに事のいきさつを短く語り、早々に床に就いたのだった。

「私が調子に乗ってあの者たちをおちょくったものだから、おまえたちを大変な目に遭わせることになってしまった」

「別に松婆のせいじゃないって。手こずったのは俺たちに力が足りなかっただけだし。紫苑のやつだって、ひとつは具合悪いくせに油揚げなんて消化に悪いものを、欲張っていっぺんに何枚も食うから、余計に具合が悪くなったんだ。しおらしい松婆なんてらしくないぜ」

 畳に額づく松葉に対して誘鬼はへらりと笑みをみせた。首元の噛み傷があざのように残っているが、見た目ほど痛みや違和感はないのか、本人に気にする様子はない。代わりに松葉が眉根を寄せた。

「だいたい、こんなのいつものことだって。今回は松婆ンとこで世話になっから普段より楽なくらいだ。寝たし食ったし、そろそろ行くよ」

「もう少しゆっくりしていけばいいものを」

「嫌だね。長居すると松婆、みっちり手習いさせるじゃないか」

 誘鬼はかぶりを振った。みっちりのところに力を込める。

「少しは書の方にも力を入れんか」

 鼻の頭にしわを寄せる誘鬼に松葉が呆れたように言う。それから、ふと立ち上がり筆を持つと紙にさらさらと何かを書き付けると、それを誘鬼に手渡した。

「本当はすぐにでも詫びに行きたいところだが、寝込んだ紫苑を置いていくわけにもいかない。すまないけれど、これを当主に届けておくれでないか」

「……俺、家出してきたんだけど」

 差し出されたふみを受け取る気配はない。

「は? 家出がなんだって? いいかい誘鬼。おまえのそれは、家出とは言わんのだぞ。放浪というんじゃ。この放蕩息子が」

「知らねえよ。俺が家出っつってんだから、家出なんだよ」

 そう言って誘鬼はぷいっとそっぽを向く。

「どうせ、ついでだろ?」

 松葉はずいと文を誘鬼のひざの前にすべらせた。口をへの字に曲げながらさも面倒くさそうに文をつまみあげる誘鬼に、すかさず松葉は一言添える。

「ちゃんと手渡しするんだよ。横着して鳥にするんじゃないよ」

「……」

 松葉の言葉に文をつまむ誘鬼の手が止まる。文を折り直して飛ばそうとしたことなど、松葉にはお見通しだった。

「蝶々にするのもダメ!」

 鳥でなくとも送る方法は他にもあるなど、思う間もなく松葉に釘を刺される。

「ちっ……親父に届けば別に俺が持って行かなくたっていいだろ」

 誘鬼は口を尖らせながらも、しぶしぶと文を懐にしまい込むと立ち上がった。

「いいから四の五の言わずに、私の言うことを聞かないか」

「オーヘーだなあ。そっちのほうが、らしいけどさ」

 ガキ大将然とした笑みに、松葉は目を細める。

「紫苑の方は、私がきちんと看病する……本当にすまなかったね」

 長居はせぬと断言した誘鬼は、言葉どおりに座敷に背を向ける。その背中に聞く松葉の言葉に、誘鬼はヒラヒラと片手を振って答えた。

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