古椿10椿の夢・血の味

 森も年を経た。深い眠りの中で、穏やかに枯れていった木もあった。その頃若かった木々も、今では立派な大木になっていた。今では戦を知らぬ若木もある。ただ森の見る悪夢に震え上がるだけで、なぜ森が悪夢を見るのかは知らない。

 椿も、いつしか立派な古木になっていた。

 その頃になると、慰霊とは関係なく、森を抜ける人々の姿を目にすることが増えてきた。ただ通り抜けるだけで、森にはなんの危害もない。

 最後に子守唄を聴いたのは、三十年以上前だっただろうか。白い着物を着た大人の横に、緋袴を着けた二人の小さな女の子が立っていた。大人の横で唇をきゅっと引き結び、大きな目でじっとその様子を見ていた。

 大人の子守唄を聴き、子どもに見守られながら深い深い眠りにつき、もう二度と悪夢など見ないくらいに深い眠りについて、二度と目覚めることはないと思っていた時、人間が森を眠りから目覚めさせた。

 女が追いかけられていた。

 時折この森を通る女だ。行商か何かなのだろう。行李をひとつ背に担ぎ、一人の時もあれば連れがいる時もある。通るときはだいたい、椿の下で一休みし、花の時期は花を愛で、鈴のような声で椿を美しいと褒めちぎっていく。

 美しい女だった。

 森にとっても椿にとっても見知った女が、恐怖に顔を引きつらせながら走っている。女は美しい顔を歪めて、大きく開けた口から空気を吸う。ヒイヒイと喉から音を立てながら逃げるその姿は、気の毒を通り越して滑稽にさえ見えるほどだった。

 美しい女をそこまで醜くさせているのは、女の後を追う男だった。

 男の手には刃物が見える。腰刀ほどの長さだ。

 必死に走る女の姿をおもしろがるように、付かず離れずついてゆく。逃げる女をなぶるように、じわじわと追い詰めていく。

 そうして、とうとう女は足をもつれさせ、転がるように地面に膝をついた。髪をふりみだし、汗と涙にまみれた顔をひきつらせ、女は後ろを振り返って息をのんだ。のんだ息を瞬時に吐き出し、肩で息をしながら、女は歯を食いしばって立ち上がると、再び走り出した。

 森は、そんな様子を夢うつつの中で感じていた。

 森の中の、古い一本の椿の木が、その様子を見ていた。

 若い女がなぜ追われているのか、そんなことはわからない。女が男に恨まれているのだろうか。物盗りか下種な行為に及ぶか、あるいはただ無意味に殺されるために追われているのか、そのようなところだろう。

 見知った女が、その美しい顔を恐怖に歪めながら、それでも逃げ延びるために走る姿を見ていて、椿は少し気の毒だと思った。だから、男の足を木の根で引っ掛けて転ばせてやった。男は女の後ろ姿ばかり見ていたので、足元に飛び出ていた椿の木の根に気づかずに、大きくつまずいた。そうして、つまずいた拍子に持っていた腰刀で女の背中を突いた。

 女は前につんのめり、二度と立ち上がることはなかった。不規則な呼吸を繰り返し、強ばった四肢を小さく震わせていたが、間もなくだらんと筋肉が弛緩して動かなくなった。

 地面に鮮やかに赤い血が広がる。

 ざわり、と森がうごめいた。

 かつて森いっぱいに漂った金臭い臭気が、森のかつての記憶を呼び起こさせる。

 女の背中に突き立った腰刀に、転んだ男の影が映る。白く曇った刃に飛び散った女の真っ赤な血が、男の目に映る。

 椿は小さくため息をついた。助けようと思った女が死んでしまった。

 まだ、若くて美しい娘だったのに。これから、まだまだいろいろなことをするはずだっただろうに。

 生き延びようと、最後まで走り続けたのに、自分が余計なことをしたためにあっけなく死んでしまった。否。男の足を掛けなくても、じきに女は男に捕らえられていたかもしれない。しかし、もしかしたら逃げきれたかもしれない。今更どうしようもないが。

 そもそも、この男がいけない。

 椿は、立ち上がった男に目をやった。

 立ち上がった男は、自分を引っ掛けた椿の木の根を踏みつけるように蹴りつけた。

 この男が悪い。

 椿は男が憎たらしくなった。だから、女の背から刀を引き抜いた拍子によろめいた男の足に、もう一度木の根をからませてやった。からませて、もう一度無様に尻餅でもつけばいいと思っていたら、男は勢いあまって持っていた刀で自分の足を切った。

 内腿の、膝の上あたりを切ったらしい。ドクドクと赤黒い血が流れ、男の着物を染めていく。

 男はのたうち回る。

 のたうち回りながら、鮮血を椿の周りに撒いていく。

 じわりじわりと、男の体から血液が流れ出ていく。女の何倍もの時間をかけて、男は死が訪れるのを待たねばならなかった。

 ふいに、甘い味が椿の根に触れた。

 椿は、全身を震わせた。

 初めて啜った時の、人間の血液の味を思い出した。

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