古椿6 森の夢・声
もとの闇に誘鬼と火狩だけが残った。
誘鬼は動かない。立ち止まったまま、依然として闇の中を見据えたままである。
闇の中から何かが聞こえた。ぼそぼそとつぶやく、人間の声だった。誘鬼はその声に耳を傾けていた。
“戦だ、戦が始まる”
“逃げろ、逃げるぞ”
“どこへ、どこまで、どこまで逃げればいいのか”
“ああ、痛や。痛や”
“助けて”
“助かるのか”
“助けてたもれ”
大気の中から降りる目に見えぬ霜のように、耳を澄ませても聞こえないほどに幽かな響きが、じわりと耳朶に触れてくる。
しくしくとすすり泣く女の声。父母を呼びながら泣きじゃくる子供の声。また子の名を叫ぶ母親の声。恐怖にわななく者の声、苦しみもがく言葉にならないうめき声。あらゆる声が聞こえる。その声は降りた霜がだんだん白く形を成すように響きが大きくなり、しまいには誘鬼自身が戦場にいるのかと錯覚するほどまでにリアルに肌を震わせた。全身が総毛立つ。ビリビリと震える音を鼓膜と肌で感じながら、激しい合戦の風景が、蜃気楼のような輪郭の淡い、儚い映像として誘鬼の目の前を通りすぎていく。
ただ、悲しい光景だった。
“ふ、ふ”
ふいに今までのものと違う声がした。周囲は変わらず森の見る夢の光景だ。
“うふ、ふ、ふ”
阿鼻叫喚の中でその声が異質に感じたのは、それが笑い声であったから。
“兄さん、ひとりかえ?”
突然、誘鬼の耳元で女の声がした。
“道に、迷ったのかえ?”
迷うような険しい道ではない。女は口内の湿った音をたててにたりと笑った。
“あの者たちと同じように――!”
誘鬼は振り向きざまに地を蹴って、後方へ飛び退いた。
「へ……」
同時に腰に差した太刀に手を掛けようとした誘鬼だったが、地面の木の根に足を取られ、声をあげる間もなく、真っ逆さまに斜面を転がり落ちてしまった。天と地が入れ替わる寸前、火狩の小さな炎が視界に映った。
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