古椿5 森の夢・古戦場火

 リ、リ……。

 ふいに、近くに聞いていた虫の音が止んだ。止んだというよりも、遠のくようにその声が小さくなっていった。

 静寂ではないその大気の震えに、誘鬼は顔を上げた。

 そして……悲しいかな。上げたと同時に顔面が蜘蛛の巣を引き裂いた。

「わっ!」

 小さく声を上げ、誘鬼は慌てて立ち止まると顔に張り付いた糸を取るべく、手の甲で顔を拭った。道の真ん中を歩いていたので油断した。これからは、火狩に顔の前を飛んでもらおうかと真剣に考えながら、炎を追って視線を先に向けた。

 誘鬼の足元を照らしていた火狩は、誘鬼の胸元あたりの高さに上がってきていた。誘鬼の視線は、その火狩を越えた闇の向こうに向けられていた。

 辺りはすっかり闇に包まれていた。火狩の赤い炎に照らされた己の白装束が、ほのかに焔の色に染まっているのが見えるだけだ。

 そんな闇の中。

 誘鬼の視線の先に、灯りのようなものが見えた。遠ざかった微かな虫の音のように、目を凝らさなければ見逃してしまいそうな、陽炎のような小さな炎が、木々の間に見え隠れする。弱々しい炎だった。松明よりも小さく、ちょうど火狩のようなふわふわと宙を浮遊するような炎だった。初めは一つかと思われたが、ひとつ、またひとつと現れてきて、気が付けば十数ほどの数になっていた。音もなく、ただふわりふわりと風に流されるように同一方向へと進んでいく。

 人、ではなかった。

 今にも消えそうな寂々とした炎だけが、宙に漂っていた。炎の群は誘鬼のいる方向へとやってくる。それは、ただたださまよっているだけのようでもあり、また、何かを探しているようでもあった。目的があるのかないのか、当てがあるのか気まぐれなのか、それとも同じ炎の火狩につられたか。真っ向から迎えるのも嫌なので、誘鬼は炎の群に道を譲るようにして木の陰に避けた。

 炎の群は、誘鬼の前をただ通り過ぎていった。

 夢。

 夢だ。森の見る夢の中に、誘鬼は立っている。森の夢に、実現する誘鬼の存在は干渉されない。ただ、誘鬼の存在も炎の存在も、一切のものがないもののように、そこにあった。

 漂う炎に音はない。ただ、炎の中には顔があった。ひとつひとつの炎の中に、それぞれに顔がある。いずれもうつろな目をして、ある者は開いた口から赤黒い血を滴らせて、またある者は片方の目に矢を突き立てていた。あるいは顔そのものが焼けただれ、白い脂肪と赤い筋線維を、黒く焦げた皮膚の内側からのぞかせている者もいた。戦で敗れた武士だったのであろう。ざんばらの髪は乱れに乱れて血で固まっていた。

 兵士ばかりではなかった。

 まだ年端もいかない幼い子供や女、年老いた者の顔までもあった。

 無数に現れたその炎は、ちろちろと弱々しく燃えながら闇に包まれた森の中をさまようだけだった。誘鬼などには目もくれない。炎の中にある目は、何も映していないのかもしれない。炎の群は、誘鬼の前をただ通り過ぎていく。

古戦場火こせんじょうび……」

 炎の消えた方に視線を向け、誘鬼は口の中でつぶやいた。

 夢だ。

 森の見た、遠い昔の現実。

 昔の夢。

 夢は現実だった。

 かつて、ここは戦があった場所だ。多くの血も流れ人も死に、土地は荒れそしてけがれた。しかし、幾度も祓い清められ、現在では静かな森となっていた。森が戦の悪夢を見るたびに、それを鎮めてきた。一番新しいのは、誘鬼が生まれるよりも前、先代である誘鬼の祖父が現役の頃だったと聞く。森が深く強い悪夢を見る間隔は、もうずいぶんと長く開いていた。これが最後となるよう祈りを込めて、先代は森を清めた。きっと、それ以前もずっと、そう祈りながら清めていったのだろう。これが最後と願いながら、しかし次に清める役は自分ではない、と先代は確信していた。だから今回の様子を伝えておこうと、まだ幼かった娘を連れて行ったのだと語った祖父の言葉を、誘鬼は覚えている。


「どうした?」


 ほとんど唇だけでささやくように、誘鬼は森に語りかけた。


 森は葉の一枚さえも揺らすことはない。誘鬼の問いに呼応することも、もちろんない。


 森は眠りの波の間に、人知れず悪夢を見ていたのだろう。折に触れ、何かの拍子に、野焼きの煙や火の匂い、獣やそうでないものの血の匂いが、大気に混じって風に流されて、森を駆け抜けた時に、森は思い出すのだろう。数十年、数百年前など、森にとってはほんの昨日のことだ。戦があった時も知っているし、その前も、そのあともずっと森は見てきている。戦と平和の繰り返し。戦が終わって穏やかな時代となった今も、ふとした時に森は過去を思い出すのだろう。


 そのようなことを考えながら、暗い森の向こうを見ていた。炎の群が消えた後、そこに残ったものは何もない。炎も光の一筋もなく、ただ暗闇が広がっているだけだった。

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