古椿3 その頃、拝家《おがみけ》

「誘鬼は遊びに出おったか」

 はね上げられた蔀戸しとみどの外にひょっこり顔をのぞかせて、華多菜かたながいつものように口角を上げて言った。振り返って部屋の中央に座する勇に向かって、「のう?」といつものように小首をかしげてみせる。勇は黙し、これまたいつものようにうなだれていた。左手で胃の辺りをさする姿がなんとも痛々しい。

「おまえ……泣き崩れろとは言わん。言わんが、ただ少しは怒るとかあきれるか、心配するだとか、そんな心持ちにはならんのか。せめて、ふりぐらいでもしてみてはどうか」

「なんじゃ、勇殿。勇殿は私が、かわいい息子が親の言うことも聞かずに家を飛び出してしまって、どうしたものかと途方に暮れているようには見えぬのか? これから日も暮れて気温も下がるだろうに、どこで夜を明かすのか、寒くはなかろうか、腹は減らぬかと案じておるのがわからぬか? 悪い遊びなぞ覚えてはおらぬだろうか。ああ、どうしたもんじゃろ、勇殿。おろおろ、おろおろ」

「……どうにもそのようには見えぬのでな」

 勇は独り言のようにつぶやいた。

 実際、勇には心労が顔にも体調にも出ている。青白い顔でがっくりと肩を落とし、深いため息をついているのに対して華多菜は、かすかに口元に笑みを作っている。誘鬼のいたずらっ子のような笑みと質は似ているが、華多菜の方があでやかである。それを見ながら、こいつら本当によく似た母子だなと、勇は思うのだった。

「のう、勇殿」

 蔀戸を背に振り返った華多菜は口を開いた。

「私は、誘鬼の気持ちは分からぬでもないぞ」

 振り返って華多菜は勇の近くへ歩み寄る。

「あんな神経質で細かい報告書、役所の人間は本当にきちんと目を通しておるのかのう? あれらの書き物、傍で見ていて嫌になるのだが。鶴戯にいたっては、勇殿が座している所へは、極力寄り付かぬようにしている始末。もちろん、勇殿の言うことは一理も二理も三理もあるがな。どうせそのうち、嫌でもやらにゃならんのじゃ。焦って今すぐ家に縛り付けとくこともないのではないかと、私は思うが……もしや、勇殿は今日のうちにこの家を出て行くつもりであったのか? 実は病か何かなのか? 明日にも我らを置いてどこかへ行ってしまうのか? そうではなかろう」

 お前も事務仕事全般が嫌いだからな、などとは口には出さずに勇は、はあとため息をついた。

 一見、子に甘い顔をしているように見える華多菜だが、拝の本業に関しての伝授は相当なものである。自身の命はいうまでもないが、ここに生きる人々の生き死ににも関わる仕事である。水の神田の神を祀るのも、五穀豊穣を願って舞うのも、人々の命がかかっている。自分のしくじりにより、自分の命だけでなく、自分を頼ってきた者たちを死に追いやることになる、ということを華多菜は息子たちに言い聞かせている。比喩ではない。家出にしろなんにしろ、自分の行いのひとつひとつに責任と命をかけろと言い放ち、そのうえでの放任主義だ。

 めったなことは起こらないと思いはするが、時折よぎる、万が一のことを考えると、勇の胃の腑はキリリと痛むのだった。デスクワークについてもだが、三日と空けずに家を飛び出す放浪癖に、本日何度目かわからない、深い深いあきらめのため息を吐いた。

「我らが子じゃ。そんなに心配しなくとも大丈夫じゃと思うぞ」

 華多菜の言葉に勇はわずかに顔を上げる。

「親はなくとも子は育つものじゃ」

 なんだかんだでそれなりのことはやっていると華多菜は思っている。勇ほどのものではなくとも、誘鬼が書くものは記録として形になっている。いちいち勇に突っかかって口論を引き起こすのも、実は外出するための口実であるということは、華多菜はもちろんのこと、実は勇も分かってはいる。分かっちゃいるのだが、ついつい売り言葉に買い言葉。気付けば今回もまんまと誘鬼に逃げられてしまったのであった。論で負けることなどめったにない勇であるが、相手が息子であると調子が狂うのか、くだらないことであっても、ついムキになってしまう。その勢いに乗じて、誘鬼はピョンと家を飛び出すのである。勇のこの気の短さが、玉にきずであった。

 やれやれと華多菜は密かに苦笑を漏らした。

「ところで、勇殿……」

 華多菜がそう口を開きかけた時、廊下の向こう側からパタパタと足音をたてながら、勇に華多菜、続けて誘鬼を呼ぶ声が聞こえてきた。

「父さーん、母さーん、兄貴ー、父さーん、母さーん、兄貴ー、父さーん、母さーん、兄貴ー、父さーん、母さーん、兄貴ー、父さーん、母さーん、兄貴ー、父さーん、母さーん、兄貴ー」

 ひたすら同じ調子で連呼している。なんだか季節外れのミンミンせみが屋敷の中で鳴いているかのようである。

「勇殿、我らは隠れ鬼の最中であったかの?」

「おーい、父さん、母さん、兄貴。父さん! 母さん! 兄貴! おーい! 父さーん、母さーん、兄貴―っ、父さーん、母さーん、兄貴ーぃ、父さーん、母さーん、兄貴やーい」

「おや、調子が変わった。我らが息子は元気よの」

「……っ」

 その声に勇はげんなりとため息を吐きつつ、声のする方へ顔を向ける。元気なことは大変に結構なことだ。それについては勇も異論はない。異論はないのだが……。

「父さーん、母さーん、兄貴―っ、父さ……」

「やかましい!」

「あ。父さん、母さん、みーつけたっ!」

 勇と華多菜のもうひとりの息子が、ぴょこんと顔をのぞかせて屈託なく笑った。ポニーテールに束ねられた猫っ毛の髪が、頭の動きに合わせてふわりと揺れる。幼い頃より黙って立っていれば、女の子のようにかわいいと近所で評判の次男坊である。

鶴戯つるぎ、我らはここじゃが、いかがした? 蝉でも取り憑いたか?」

「なんで蝉が憑くんだよ」

 そりゃお前が、文字通り憑かれたように馬鹿でかい声で、同じ文句を繰り返し繰り返しわめき散らすからだというと、鶴戯は肩をすくめて苦笑の真似事をした。

「憑いてないよ。紫苑しおんから手紙が届いたんだけど」

「誰宛に?」

「こっちが当主宛て。それでこっちが兄貴宛てみたいなんだけど――」

 と言いながら、鶴戯は鳥の型に折られた紙を掌の上に乗せた。

 ここにいないのは百も承知といった風情できょろきょろと辺りを見渡し、改めてそこに座する両親に視線を向けた。鶴戯から受け取った文を横からのぞき込むように見ていた華多菜は、ちらと勇を上目遣いに見やり、無言で方眉を上げた。勇は反射した眼鏡のレンズで目の表情こそ読めないが、引き結んだまま微動だにしない口元の様子から、それとなく状況が読めるほどには、鶴戯は拝家の家族をわかっていた。

「ひと足遅かったみたいだねー」

 両親の様子を一瞥した鶴戯は、残念残念と棒読みのように付け加えた。

「火急の用じゃろか……って、鶴戯。お主、ためらいもなく人のふみを開くでない」

「急ぎだったら困るじゃん」

 今更急ぎの用事だと分かったところで、既に誘鬼はここにいないのだが。

 華多菜の呆れた視線に構うことなく、鶴戯はガサガサ、バリバリと音をたてながら鳥の型を崩していく。折り目以外のしわのない勇の手にある文に対して、鶴戯が開いた文は、丸めてゴミ箱に入っていたのではと思うほど、しわくちゃだ。届いた時には、どちらも同じようにしわひとつなく折られていたのであるが。

「えーと、なになに……おぉ、ストレート。会いたいから家にいろって。家出するなら後にしろってさ。あーあ、残念。わざわざ先回りして手紙送ったってのにねー。兄貴いなかったら、紫苑がっかりするかもねー、それより激怒するかなー? 紫苑来ても十回に一回くらいしか家にいないもんねー。まー、後先考えずに年がら年中理由つけちゃー、父さんにいちゃもん付けて家出するんだからさー。てゆーか、父さんも兄貴のペースに乗せられてばかりいないで、少しは大人にならないと。父親なんだからさー。短気は損気って言うじゃない? 子供のたわ言に簡単にムキになって、大人としてどうなのよ? たまにはビシッと父親らしいところをオレたちに見せてよ」

 かわいい顔で、言いざまは辛辣だ。

「鶴戯よ、お前は勇敢な息子じゃのう」

 華多菜は花のような笑みを浮かべ、心の底から感心したように述べると、膝の上で握りしめられた勇の拳を、やんわりと包み込むように手に取った。

「勇殿、勇殿。我らが息子は大した息子じゃ」

「オレが特別に優秀なわけでもないと思うけどね。中間子以下の子供ってのはさ、社会の中で生きていくうえで、すぐ目の真ん前にいいお手本があるじゃない? 長子の成功はしっかり真似して、失敗は真似しなけりゃそれでいいんだからさ。簡単なことだよ。長子の振り見て我が振り直せ。長子見てれば、世の中わりに上手く渡り歩いていけると思うよ」

 父親譲りで口の達者な次男坊は、カラカラと笑いながら去ろうとした。

「子供子供と思っておったのに、鶴戯も大きうなったのう。母は……母は嬉しいぞ……」

 華多菜はそう言って袖の端で目元を静かに拭った。そして、目元を覆ったまま嘘くさい涙声で「のう、勇殿」と声をかけた。

「うちには出来のいい息子が二人もいて、本当に幸せじゃのう。ついこないだまで乳飲み子だった下の子も、すっかりたくましく成長しおって……。おお、そうじゃ、勇殿。放蕩息子の誘鬼がだめなら、しっかり者の鶴戯を鍛えればどうじゃ? 誘鬼と違って鶴戯なら、そうぽんぽんちょくちょく家を飛び出すことはないぞ」

「は……冗談! やるわけないじゃん。父さんみたいに粗探し得意な性格じゃないもん、オレ。重箱の隅を楊枝でほじくるようなねちこいマネなんて絶対ヤだよ!」

 慌てて去ろうとする鶴戯の肩を、勇はがっちりと押さえた。先ほどまで胃の腑を押さえて青い顔をしていた人物と同一であるとは俄かには思えない素早さと腕力だった。

「そうじゃ。今日はお赤飯じゃ。お赤飯を炊こう。鶴戯が大人になっためでたい日じゃ」

 赤飯赤飯と歌うように口ずさみながら、華多菜は鶴戯の周りをくるりとターンして部屋を出ていった。

「鶴戯、おまえもそろそろこういう仕事も覚えていかなくてはな? うん、そうかそうか。ぜひともお願いしますとな。よしよし、おまえはいい息子だ、孝行息子だ」

「え、いや……その、えーと……」

 緩められない勇の手から、拒否する言葉を発することを封じる呪でも出ているのか、鶴戯は目を泳がせながらあいまいに笑って、その場をやり過ごすのが精一杯だった。

(ううう、兄貴のばかたれ!)

 さっさと退散した母親の後姿を目で追いながら、鶴戯は元凶である誘鬼を思い浮かべ、思いっきり毒づいた。

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