古椿8森の夢・古椿


 “黄昏時はとうに過ぎておるのに、ひとりで危なくないかえ? ここで休んでいくとよい。ずっといてもよい。ゆっくり休むがよい”

 籾米の当たったところから小さな煙が出ている。細くたなびくその煙に視線を落とした女だったが、強く咎めるような形相ではなく、いたずらっ子に手を焼く姉やのような苦笑を含んだ怒りの表情をしていた。木の枝に腹を引っかけるようにしているのか、上半身だけを木の葉の間からのぞかせた女は、作ってみせた怒りの表情を和らげて口元をほころばせた。椿の花びらを含んだような、楚々とした笑みだった。

“永遠に、ここに……”

「いや。俺、急いでるから」

 だから森の出口に向かわせてもらうと、木の上の女の声を誘鬼は辞した。女が親切で言っているのではないということは、確実だったから。

“急いだとて、しようがない”

 伏し目がちにつぶやく女の静かなもの言いの最中、誘鬼の足元の土ががぼこりと割れ、そこから無数の木の根が槍のように突き出てきた。

“急いだとしても、死んでしまう”

「な、ん……」

 木の根の槍は、誘鬼と火狩を串刺しにする勢いで襲い掛かってくる。誘鬼は横に飛びのき、地面を転がってその一撃から逃れたが、束となった木の根に攻撃を受けた火狩は、誘鬼の許から弾き飛ばされてしまった。誘鬼は太刀を片手で薙いで周りを素早く見渡し、退路を探した。周囲には何もない。飛び出る木の根から、逃れさえすればよいだけだ。つまり、退路などあって無きがごとしであった。

「くそっ! これも、森の夢かよっ」

 違う。夢は、ただ森の記憶だ。ただ、森の夢に迷い込んだ者が、森の見る夢を体感するだけだ。運が悪いと、森の中から抜け出せなくなってしまうが。

 “結局、死んでしまった”

 女はつぶやくように言いながら、太刀を構える誘鬼に、ずいと近づいた。それと同時に、地面から伸びる根の一本が、誘鬼の足に絡みつき、地面に引きずり倒した。

「……ってぇなぁ!」

 悪態をつきながら身をよじって誘鬼は体を起こした。地面から突き出た木の根は、がっちりと誘鬼の足に絡みついている。太刀でたたき切るかどうかしなくては、取り去ることはできないだろうが、折あしく、足ばかりでなく手の自由も木の根に封じられていた。どうにかそれから抜けようとあがいてみたが、足同様に時折ギチギチと音を出す程度にしか動けなかった。ただ、太刀の金気は嫌なようで、そこは避けるように絡んでいる。手の自由が利かない限りは、それも役には立たないが。

 女の近くに咲く椿の花から、黄色い花粉がぱらぱらと落ちる。肉厚の赤い花弁が虫によってゆっくりとしなるように揺れている。闇に浮かぶ赤い花と黄色い花粉が、やけに鮮やかに誘鬼の目に映る。やがて花の動きが小さくなり、そして動かなくなった。動かなくなった花の中から、ぽとりと何かが落ちた。虫だった。羽のたたまれた背を地面に、折り曲げた細い足を上にしたまま、もう先ほどのように吸い寄せられるように花に向かって飛びまわる様子はなかった。ぴくりとも動かない。かさかさに乾燥しているようで、わずかな大気の揺らぎにころりと転がり地面のくぼみにはまって、それきりだった。

“死ぬるのだから……れ。その血肉を、れのために”

 誘鬼の間近までやってきている女は、白い手を誘鬼の頭にふわりと乗せた。幼子の頭を撫でるような柔らかな仕草だが、その女の姿は明らかに異様だった。女は先にいた木の枝から一歩も動くことなく、誘鬼の側までやってきているのだ。ちょうど木から人が生えているように、腰から下は木の一部のように埋まり、胴から上が幹のように伸びているのだった。

 女は薄く唇をなめた。誘鬼の頭に乗せられた手に力が込められる。指をいっぱいに開き頭をわしづかみにし、もう片方の手で首元に爪を立てる。頭と胴を分けるつもりなのか、そのままそれぞれの手を外側に開こうと力を込める。

「て……めぇ……っ」

 首の骨がみしりと音をたてる。一刻も早く、せめてどちらかの手を振りほどかなくては、誘鬼の頭と胴は本当に分かれてしまう。頭も首も手も足も、全身ほぼがんじがらめだ。しかし、女の意識が誘鬼の首に向いているせいか、手足を戒めている根がわずかに緩んだ。大きく動かせはしないが、手首を動かすくらいはできそうだ。それに、太刀の周囲は明らかに根がほぐれつつある。

 誘鬼は太刀を持つ手に力を込めた。悠長なことはしていられない。頭を引きちぎられる前に女から逃れなければいけないのだ。

 憎しみの色も歓喜の色もなく、ただわずかに眉間にしわを寄せて、女は両手に力を込めている。それは単純に力を込めることで現れる表情だ。

 誘鬼には手元などもちろん見えない。見えるのは女の白い顔と黒い木々の影、そしてその上に広がる藍色の空。その空がゆらゆらと揺れている。

 否。揺れているのは空ではなかった。黒い木々の影だった。風で木々が揺れている。

 誘鬼はにやりと笑った。同時に手首を返して太刀を振る。下手をすれば自分の身体を傷つけるが、イチかバチかだ。頭をもがれるよりはずっとマシだ。

 ガツッ。

 手ごたえはあった。自分の身を削ぐ感触はなかったので、うまいこと木の根に当たったのだろう。女の視線が後方へと逸れ、頭と首をつかむ手の力も緩んだ。誘鬼は鋭く息を吸って女の指の間から見える藍色の空に向かって声をあげた。

火狩ひかりっ!」

 せき込みそうになるのをこらえ、誘鬼は頭を振って女の手を振りほどいた。

“あの小さな火は、もうおらぬであろう”

 振り返っていた女が誘鬼に向き直る。駄々っ子をあやすような口ぶりで言いながら、女は優しげに誘鬼の髪をなでようと手をのばした。

“呼んでも、来ぬよ”

「俺は、退けとは言っていない」

 誘鬼の言葉とほぼ同時に、木々が激しくざわめいた。女の髪が風にあおられて乱れる。女は誘鬼の髪から手をどけると、辺りを見渡した。左右に視線を送り、次いで上空に目をやった女の顔が強張った。

 上空から尾を引いた巨大な火の玉が、こちらに向かって急降下してくるところだった。木の根に弾き飛ばされた火狩は、上空で風をいっぱいに含んで誘鬼の元へと戻ってきた。都合上、普段は小さな火として現れるが、御用とあらばどのような大きさにでも変えられる。火球となった火狩は誘鬼と女の間に割って入り、女を威嚇いかくした。首元を締め上げる女の手が、引付のようにぴくりと震えて爪が誘鬼の皮膚を薄く破った。火狩の炎の色が、すうっと青白く変化していく。それだけで、女の腕は白い煙を出して干からびていった。女は腕を引く間もなく、誘鬼を傷付けた腕を灰にされてしまった。

「火狩」

 誘鬼は火球に向かって声を掛ける。火狩は誘鬼の周りをふわりと一周した。誘鬼の肌には暖かく、誘鬼に絡みつく木の根は灼熱の炎で容赦なくあぶり焼いた。効果はてき面だった。木の根は一瞬で誘鬼から離れていった。離れていった木の根の表面は、所々黒く炭化し、肉の焦げる匂いが混ざった煙を出していた。女はじりじりと後ずさり、元いた木の上から誘鬼を見下ろした。

“己はな、ただ眠っておっただけだ”

 女の口から言葉がもれる。

“人間が、己を起こしたのじゃ。血肉の味などとうに忘れておったのに、花の盛りがあった時を、美しとの声も、何もかも忘れて静かに朽ちていくはずであったのに。人間が思い出させた”

 女はにたりと笑った。

“思い出してしまったのじゃ”

 誘鬼は太刀を抜くと、ゆっくりと構えた。

“今更、己を斬って滅するか。己はただ深く眠っておっただけじゃ。それでも”

 誘鬼は上段に構えた太刀を、一刀両断に振り下ろした。蜘蛛の糸を払うようなかすかな手ごたえとともに、女の姿は花びらを散らすように消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る