第3話
▼前半:柴又帝釈天裏 お亀婆の長屋
後半:柴又帝釈天境内 材木置き場
【庄屋さんで頂いた野菜をたんまり持って帰ってきた八五郎。使いも無事終えられ、さらには、先ほどもらったお駄賃も、なんとお婆さんにと言われた分もまんまとせしめております】
八五郎 <おーい、婆さん。戻ったぞ>
お亀婆 <おお、ありがとうね。あちらの庄屋さんは何と言っておいでだった?>
八五郎 <ん?漬物も佃煮も、しつこいほど礼を言ってたぜ。ありがたいだの、うまいだの、褒めちぎってた>
お亀婆 <それはうれしいのう。それでこそ作り甲斐のあるってもんだ>
八五郎 <そうかい?しょっちゅう食わされる身じゃあ、飽き飽きだけどな>
お亀婆 <だまってなよ。ありがたみが分からんのかね>
八五郎 <俺も渡し一つくらい離れられれば、ありがたみが分かるかもしれねえな。そうだ、お返しのこの野菜。重てえ、重てえ>
お亀婆 <お、みずみずしい良い野菜だね。こちらもありがたいね>
八五郎 <また漬けんのかい?>
お亀婆 <うるさいね、漬けたり漬けなかったり、いろいろだよ。そら豆なら茹でるかね、筍なら土佐煮なんてどうだい?>
八五郎 <お、そりゃうまそうだ。近々、おすそ分けてくれや。いいか、前もって教えといてくれよ>
お亀婆 <なんでだい?>
八五郎 <決まってるじゃねえか。酒をあがなってこなきゃならねえ>
お亀婆 <そんなうまくいくわけないじゃないよ。しょうがないね>
八五郎 <へへへ>
お亀婆 <それにしても戻ってくるのが早かったじゃないか。届けてもらって、それだけだったのかい?>
八五郎 <まあ、長居する理由もねえからな。それでも少しくらいは世間話の相手をしたぜ>
お亀婆 <どっちがどっちの相手をしたんだか>
八五郎 <ふん>
お亀婆 <収穫やら、今度は田植えやら、忙しいと言ってたろ?>
八五郎 <お見通しだな。たしかに言ってたよ>
お亀婆 <毎年この季節はそれしかないからね。しごくもっともだ>
八五郎 <嫌なばばあだ>
お亀婆 <お前に言われる筋合いはないよ>
八五郎 <それがだな、世間話はそれだけなわけあるめえ?>
お亀婆 <はて、あの庄屋がそれ以外に?>
八五郎 <まったく、わかってないな。見ろやい、このいい天気を。こんな日に仕事のことばかりじゃ、生ける屍だぜ。風に任せて旅にでも出たいな、と、そんな話>
お亀婆 <つまりは夢物語ってわけだ>
八五郎 <うるせえ。まあ、聞けな。旅はいいが、さてどこに行くかが肝心だ>
お亀婆 <そりゃそうだ。芝の海岸とお伊勢様とじゃ雲泥の違い>
八五郎 <そう。それに、俺らの身の上を考えてもみやがれ。今からお伊勢様に行けるか?>
お亀婆 <金も仕事も、行けるわきゃないわな>
八五郎 <腹立つが、その通りだ。では、どこに、となった時に、だ。くしくも途中の乞食坊主と庄屋の口から同じところが出てきたと>
お亀婆 <片や乞食の願掛け坊主、片や福徳の庄屋様。それこそ雲泥の違いじゃないのかい?>
八五郎 <婆さん、何百年生きてんだ。それがそうとは限らねえ>
お亀婆 <で、どこなんだい?>
八五郎 <成田山は新勝寺さ>
お亀婆 <ほう、どんなところが口を衝くかと思えば、なんとも良いところ、名所が出たのは驚きだ>
八五郎 <だろう?澄み渡った空のもと、それこそ菜の花の漬物と握り飯もって>
お亀婆 <この春の菜がちょうど漬かってるよ>
八五郎 <はは、用意がいいや。ま、庄屋の軒先でそんな夢を見たってことだ>
お亀婆 <あの庄屋がそんな話をするたあ、意外意外>
【そんなこれも他愛もない世間話をしている時、ここ柴又帝釈天のすぐ裏手にある長屋にまで境内で何やら出来した騒ぎが聞こえて参ります。人々の騒ぎ立てる声や半鐘の音、木材を打ち壊す音などが届き、八五郎とお亀婆も何事かと話をやめて長屋の戸口から顔を出します。そこへ八五郎の大工仕事の仲間が駆けつけます】
大工仲間 <てえへんだ、てえへんだ>
八五郎 <なんだ、なんだ?この騒ぎ、まさか火事か?>
お亀婆 <半鐘の嫌な音だ>
大工仲間 <お、おうよ。火事だ、火事だ>
八五郎 <そうか、知らせてくれてありがとな。火は大きいのか?>
お亀婆 <この半鐘の音なら、まだボヤくらいじゃないの?でもわからないよ。火の悪魔は>
大工仲間 <まぁ、火自体はまだそんなに大きくねえ。だが、と、とにかく、八、ついて来てくれ。火元が火元なんだ>
八五郎 <あん?なんだ、そりゃ?>
大工仲間 <いいから、こい>
【大工仲間に強引につれられて、八五郎は柴又帝釈天の境内へ。そうこうするうちに到着したのは、昨日まで八五郎たちが大工として普請をしていた現場のすぐ横、材木置き場です。もう見えるところに火も煙もありませんが、群がる人たちはまだ興奮さめやらぬよう。どうやらボヤの出所はこの近くのようで、ところどころ材木にも真っ黒な焦げ跡が見えます】
八五郎 <大事になってねえようで、よかったが、まさか、うちから出したわけじゃねえやな?とんでもねえぞ>
大工仲間 <そこは大丈夫だ。俺も一瞬ぞっとしたけどな。どうやら何かの供養に使おうとした蝋燭の灯心かららしい>
八五郎 <組のみんなも無事か?>
大工仲間 <大丈夫だ。だがな、この様子じゃ、ここ帝釈天での仕事は止まっちまうな。そこが棟梁も憂いてるところだ>
八五郎 <そりゃ、そうだろうなあ。お上が許しちゃくれねえだろ>
大工仲間 <ああ、きっとな。となりゃあ、俺らみんな食いっぱぐれちまう。ちょうど他の仕事も、ここ帝釈天の大普請に集中するっつって棟梁が断っちまった矢先>
八五郎 <間の悪りいこった>
大工仲間 <一寸先は闇。前もってわかりゃしねえさ。仕方のねえ>
八五郎 <ううむ、明日から困るってわけか、お互い>
大工仲間 <ううん>
八五郎 <ま、しょうがねえ、一杯ひっかけてから考えるか?>
大工仲間 <お、いいねえ>
棟梁 <おい、おい、てめえら。大変なことになっちまった。困ったぞ、ああ、困った>
八五郎 <あ、棟梁。これはこれは。本当に困っちまった>
棟梁 <ここじゃ、仕事は明日からは無理だ。別にどこか探さなきゃならねえ〉
八五郎 <まさにそのことを、今こいつとも話してたんだ>
棟梁 <そこにちょうど同じ座の仲間から話があってな。幸いにも、人手不足で猫の手も借りたい普請があるってことなんだ。お前らがよければ、そこでお願いしようと、みんなに知らせようとしてたところだ>
八五郎 <お、なんと。そりゃあ、ありがてえ。どこになりやす?>
棟梁 <ちと遠いんだがな、明日の朝一番で発って、すぐにでも大工仕事にありつけそうなんだ。場所は、ここ帝釈天と同じ仏門の、成田山新勝寺だ>
八五郎 <むむむ>
棟梁 <どうした?なんか不服か?>
八五郎 <いやいや、滅相もねえ。ぜひとも。今のは、単に内々の奇遇に驚いただけで>
棟梁 <行ってくれるな?>
八五郎 <もちろん>
【旅心宿す八五郎の身に頓に降りかかった運か不運か、期せずして成田山新勝寺へと仕事で向かうことになりました。勿怪の幸いとなるか、はたまた、あくまで大工仕事で物見遊山とはほど遠いことになるか、仔細は次回のお話にて】
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