第2話
▼松戸宿郊外 豊川村の庄屋・稲村家邸
【さて、矢切の渡しを無事対岸まで着きまして、八五郎は松戸の町まで続くあぜ道を歩いてゆきます。道端にはタンポポ・ハルジオン・スミレが咲き、そよ風が優しく頬を撫でるといったほど良い気候。あぜ道には行き来する人たちがちらほらと散見されます。八五郎もそれら行人にまじってテクテク歩き、ついには目的地の庄屋さんの屋敷に着きました】
八五郎 <こんちはー。こんちはー。柴又の八五郎が参りましたー。お亀婆さんの使いで参りましたよー>
女中 <はーい。ただいまー。少々お待ちくださーい>
八五郎 <ふう、天気が良いのは良いが、ここまで歩いてくると暑いなぁ>
女中 <はいはい、お話は承ってますよ。はるばる、よくおいでで。暑かったでしょう?>
八五郎 <いや、本当に。さつき晴れを味わえたのはせいぜい渡し船に乗ってるときくらい>
女中 <まあまあ。いま、冷たいお水でも持ってきますね>
八五郎 <お、たのむ。今日はあれだ、婆様からの届け物だ>
当主 <これはこれは、八さん。いつもお世話になるね。お亀さんから聞いているよ。いらっしゃい>
八五郎 <ああ、どうもどうも。これね、佃煮と漬物>
当主 <ほう、お亀さんの特製の。これがまた美味でね。ああ、ありがたい>
八五郎 <そんなもんかね。俺あ飽き飽きしてるよ>
当主 <贅沢ですな。えっと、中身は、この小魚は小女子かな?>
八五郎 <おう、佃煮のほうは小女子と新生姜だと。漬物はかぶとわらびと、あとは忘れた。野山で取れたんだと>
当主 <いやはや、素晴らしい。ありがたく頂戴いたします>
女中 <はい、お水どうぞ>
八五郎 <お、ありがてえ>
当主 <八さん、ここまで渡し船もあるし、大工仕事も穴開けていたら申し訳ない。これ、ほんの気持ちだが、取っておいておくれ>
八五郎 <いや、そんなに。いやいや、俺あ今日は帝釈天での仕事もなくなったから、別に大それたことじゃあねえ。そんなに銭はもらえねえよ>
当主 <いやいや、いいのいいの。受け取っておくれ>
八五郎 <そうかい、そんなに言うなら>
当主 <あと、お亀さんにも、これを。お届け物のお代だと思って>
八五郎 <お、かなり多いな。たしかに渡しとく>
女中 <大丈夫かえ。渡すんだよ>
八五郎 <う、うるせえ>
当主 <これ、女中。お亀さんにと取っておいた野菜を持ってきておくれ>
女中 <はーい>
【こう言われて女中は屋敷の奥へと消えてゆきます。八五郎がお婆さんに言われた通り、庄屋屋敷の四方に広がる畑からとれた野菜を八五郎へと持って帰らせるつもりのようです。その間、しばらく玄関先での世間話が続きます】
当主 <八さん、あがってゆかれたらどうですかな?>
八五郎 <いや、せっかくなんだが、今日はちょいと立て込んでて>
当主 <そうですか、残念。ではまたご都合よろしいときにでも。いま野菜を取りにやらせてますから少々お待ちを>
八五郎 <それにしても、いい天気だね。風もいい具合に吹いて>
当主 <そうですな。こんな日にはどこか出かけてゆきたいですな>
八五郎 <おっと>
当主 <はて?>
八五郎 <いや、ここまでの道中、偶然会った知り合いも同じことを言ってたんで>
当主 <そうですか。まあ、さつき晴れの空のもと、それが人の情というやつでございましょう。もっとも、私たちは今は畑仕事に田植え仕事でとうてい手が離せないのが実情ですが>
八五郎 <八十八夜も近いし、そうなんだなあ>
当主 <忙しいのは大工さんも同様でしたな?柴又の帝釈天では、これもまた大きな普請があるようで。お聞きしましたよ>
八五郎 <おかげさまで、忙しくさせてもらってる。たとえばの話だがね、物見遊山に行くとして、どこが面白えかね?>
当主 <夢のまた夢ですが、いいですね。そうですな、松戸から街道を水戸へというのもいいですが、ちと遠すぎるかもしれません。ちょうどよいのは、ううん、そうだ、成田山なんかいいですな>
八五郎 <おっと>
当主 <はて?>
八五郎 <いやいや、成田山というのも、さっき言った知り合いも言ってたんで>
当主 <そうですか、奇遇ですな。でも、それだけ人に勧めたいほどにいいところということでありましょう。仁王門から鐘楼に仏塔、本堂まで、さまざまな堂宇がそびえております>
八五郎 <そりゃいい>
当主 <きわめつけは不動明王様でしょう。普段はじかに拝むことはできないと言いますが、御開帳にでもあわせて>
八五郎 <ふーん。語るねえ>
当主 <いやはや、失礼失礼。ま、これも日々の仕事に汲々として、つまるところは夢のお話でしょうけれどね>
八五郎 <お不動様が許しちゃくれねえってか>
当主 <ははは>
【そこへ女中が屋敷の奥から駆けて参ります。女中の持つかごからはみ出さんばかりの量の野菜はどれも新鮮で輝いております。水洗いされ、女中の走りとともにしぶきをあげるかのよう。そのとき、この女中、戸棚の角に足をぶつけ、小さい悲鳴とともに盛大に転びます】
女中 <きゃぁ>
【たまねぎ、ごぼう、韮、豆苗、そらまめ、いたどり、筍など、あたりに散らばります】
当主 <あらら、大丈夫かい?>
女中 <すみません>
八五郎 <散らばっちまって。拾うから、かごを>
女中 <すみません。もう一度、洗って参ります>
八五郎 <いい、いい。どうせ帰りはまた手ずから運ぶんだ>
当主 <八さん、大丈夫かね?>
八五郎 <大丈夫、大丈夫。ありがとうございます>
当主 <それなら、道中お気をつけて。着いたら向こうでまた洗っておくれ>
八五郎 <合点>
当主 <お亀さんにもお礼と、よろしく伝えておくれ>
八五郎 <あいよ。じゃ、これで>
【結局、わらじも脱がなかった八五郎。もらった野菜をかごに入れ、来た道を帰ってゆきます。頼まれごとは無事終えられたのは何よりで。それにしても、行きは托鉢坊主、今は庄屋の当主から同じく勧められた成田山参詣。帰途もさつき晴れの下、旅心宿す大工にどのように影響するか、次回のお話をお待ちください】
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