【落語台本】成田山(なりたさん)

紀瀬川 沙

第1話

▼矢切の渡し、柴又側の船着き場


【ある初夏のみぎり、青空広がる昼下がりのこと。矢切の渡しには、つばめ飛び交うのどかな時が流れております。その柴又側の待合所にて、野暮用をもった八五郎が一人で渡し船を待っております。そこへ、八五郎の知己の托鉢坊主がやって参ります。托鉢坊主は少し前に矢切側からの船で来て、上陸してから少しの間、船着き場の入口あたりで陀羅尼をひとくさり唱えておったようで】


托鉢坊主 <おやおや、八五郎さん。こんにちは。良いお天気で>

八五郎  <おう、坊主、奇遇なこった。今日はどうしたい?>

托鉢坊主 <いやね、今日は金町のほうで法事ができましてな>

八五郎  <あんたは托鉢しかしていねぇのかと思ってたよ>

托鉢坊主 <いやはや、参りました。まぁ普段は私もこの辺りを漫遊しては、仏にこの身をささげ、真言・陀羅尼を奉るばかりですが、今回は生前に大変お世話になった発心の方ということで、菩提をとむらわせて頂こうと思いましてな>

八五郎  <それはそれは、ありがてえ話だ。おとむらいの家にとっちゃあ、弔事だが>

托鉢坊主 <して、八五郎さんは、今日はどうしてこのようなところまで?この様子だと、矢切のほうへとご用ですか?>

八五郎  <そうなんだよ。近所の婆様から、向こう岸の庄屋まで届け物がてら野菜を取りに行って来いと言われちまって。めんどくさい話だろ?>

托鉢坊主 <出家の身には野菜は大事。なんとも貴いことだと思いますよ。でも、八五郎さん、大工仕事はいいんですか?>

八五郎  <いやね、このところ帝釈天様での大きな大工仕事にかかりっきりだったんだが、今日は庚申の縁日で境内の仕事はなしだってことで。とたん暇になっちまって、そこをすかさず婆様に野暮用を頼まれたってわけ>

托鉢坊主 <まあまあ。人助けに精が出ることで。また、ほら今日のこの朗らかなご陽気。なんとも晴れわたった皐月の空のもと、つばめも新緑も競うように美しいですな>

八五郎  <はは。俺あ、そんなに風流じゃねえけんども、おっしゃる通り、心持ちの良い天気だ。空模様じゃ、今日から当分は同じような晴れの天気が続くだろ。こんな時にはどっか、お伊勢さんとまでは言わないから、どっか物見遊山にゆきたいね>

托鉢坊主 <ほんにそうですな。私も托鉢のための漫遊を常日頃からしてるとはいえど、手近なところどこかで目新しいところにでも行って、そこでお経の一つでも唱えられればと思いますよ>

八五郎  <坊さんらしいや。俺あ、物見遊山に酒と珍味美味だけが楽しみだけどね>

托鉢坊主 <ははは。この沙弥には味わえないものを。うらやましい限りで>

八五郎  <ま、どうせ明日あさっても大工仕事。たまの休みも今日みたいに近所の婆のおつかいしてちゃ、夢のまた夢なんだが>

托鉢坊主 <いやいや、近いうちに叶いますよ。仏さまは見ておられますから、報うてくれるはず>

八五郎  <はは。だと良いけどね>

托鉢坊主 <では、おひとつ>

八五郎  <ん?>


【ここで托鉢坊主、喜捨のたんまり入った袋を見せます】


托鉢坊主 <ささ、おひとつ。お釈迦さまの御心のまにまに。きっと今日の道中を安んじてくれましょう>

八五郎  <けっ、はなからそういう魂胆けえ。ここまで話しちゃ断ることもできねえや。ほら、もってけ>

托鉢坊主 <ありがとうございます。御仏のご加護があらんことを>

八五郎  <ふん、待ってる渡し船も来やしねえ。待合にきれいな菩薩もいやしねえ>

托鉢坊主 <そうだ。物見遊山と聞いて思い出すのは、先月に托鉢のための漫遊の道すがら寄った、成田山新勝寺ですな。いや、あそこは良かったですよ>

八五郎  <ええ?成田山新勝寺?あの団十郎がひいきにしてる寺かい?>

托鉢坊主 <ええ。ここを渡ってずっと先、八五郎さんの行くであろう庄屋さんよりもずっと先でしょうな。私が訪れた時はちょうど、お不動様の護摩行をしておりまして。大伽藍のなか、今の御世にも何とも効験あらたかな行いでございました>

八五郎  <ふうん。そりゃ良いな。行ってみてえ。そういや、だいぶ前に、近所でも成田参りに出た奴らがいたっけ。目と鼻の先に帝釈天様がいるってのに、浮気な奴らだよ>

托鉢坊主 <いやいや、帝釈天様とお不動様は同様に霊験あらたかとはいえ、まったく違った仏さま。向こう岸のお不動様も捨てたもんではありませんよ。それに、大半の人たちは違いもわかりませんで、情けなきこと>

八五郎  <俺もよくわからねえが。護摩行たぁ、熱くてやけどしそうだな>

托鉢坊主 <熱ければ熱いほど、我慢すればするほど、信心が天に通ずるといったものでしょう>

八五郎  <天に通ずる、ねえ。帝釈天ならわかるけど、お不動様の天に通ずるたぁ、どういうカラクリだか>

托鉢坊主 <こりゃ一本取られましたな。おやおや、だんだん船屋のひさしの影も長くなってきて。法事に遅くなるといけません。そろそろ失敬しますかな>

八五郎  <おう。ちょうど矢切からの船も見えてきた。もう少しでこっち岸に着きそうだ。あの船の客が降りてきたところでもう一発、なんかのお経あげてみたらどうだい?賽銭もらえるかもしれねえぞ>

托鉢坊主 <ぜひぜひ。ちなみに、賽銭とは御神道でのこと。仏刹においては>

八五郎  <はいはい。ありがとよ。それじゃ、また帰りにでも会うかもな。道中安全にな>

托鉢坊主 <ありがとうございます。はい、では。八五郎さんも、お気をつけて>


【こう言うと、托鉢坊主はさっきまで陀羅尼を唱えていた場所へと戻ってゆき、八五郎は渡し船へと乗り込むため桟橋へとくだってゆきました。風光るなか、さざ波の立つ川面がきらきらと照っております。向こう岸へと渡る八五郎。諸国漫遊の托鉢坊主との会話は、八五郎に予期せぬ旅心をつけたようですが、詳しくは次回のお話にて】

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