第1話
「ただいま!!」
既に誰もいない家の中にこだまし、そして何事も無かったかのように消えていく。
もう、動きたくない、何も考えたくない。
少なくとも今日は、誰にも──それこそ親にも──見せられない、素の僕でいたい……。そんなことを願いつつ、憔悴しきった身体を無理やり自室へと運んだ。
とりあえずベッドに体重を預け部屋をぼーっと眺める。そうしていると何故か、嫌なものばかりが目に入る。最近は克服出来ていたはずの姿見も、今日ばかりは忌々しくて仕方がない。
僕を写さないでくれ…。こんな姿、元々望んでない…。
それだけではない。その近くに置いてあるたくさんの化粧品やメイク道具やアクセサリー、それらでさえも今は僕の気分を害する。
部屋にある何もかもが僕を苛立たせる。
全部、無くなって仕舞えばいい…。
こんなもの、「私」には必要なのかも知れない、けど僕にはいらないんだ!
…もう何も見たくない。
瞼を閉じるとすうっ、と怒りが引いていく。そのまま意識さえも遠のいて、溶けていく。やがて真っ暗になる…
…声が聞こえる。
「…なさい!起きなさい!朔夜!」
甲高い怒鳴り声が寝起きの耳をつんざく。
ああうざい…。せっかく寝たおかげで頭がすっきりしたっていうのに。
「…なに?お母さん?」
「なに?じゃないわよ!学校から連絡があって、あなたが学校に来てないって言うもんだから!どこで何してたの!」
ぼんやりと聞き流しつつ僕は時計を見る。
いつの間にか17時になっていた。…てことはもう9時間くらい寝てたのか…。
「ねぇ!聞いてるの!?」
「…聞いてるよ。今日は体調悪く感じたから途中で戻って来たの。だから私はこうして安静にしてたの。」
「そんな嘘が通じるとでも思ってるの!?はぁ…、とりあえずどんな理由があろうとも、絶対に明日から学校には行きなさい!分かった!?」
そんなの言われなくても。
「分かってるから。出てって。」
少し不満げな顔をしていたが「絶対だからね」と言い残し荒々しくドアを閉めて出ていった。
静まった部屋にどこからかバイブ音が鳴り響く。音の在処へと向かい手に取ると、予想以上に多くの通知が来ていた。その大半が千夏からの不在着信。あとは
『ごめん、あのことがそんなに朔夜のことを傷つけるとは思ってなかった。ほんとに、ごめん。』
という一通のメッセージだった。
メールは良い。いつだって本心を隠して返信することが出来る。
…僕を「私」で隠すことが出来る。
『私の方こそごめんね。あんなに取り乱しちゃって。今日の部活、私がいなくて大丈夫だった?ほら、千夏って練習メニューとか覚えて無さそうだし(笑)』
僕がそう返信すると、「私」がもう気にしていないと感じたのか、その夜はそれから普通のやり取りを始め、
『じゃあ、また明日学校でね。朔夜。』
そんな一言で幕を下ろした。
昨日の整理はしっかりとついた。
千夏に気づいた素振りはなかったとはいえ、あの過ちを繰り返してはいけない。
姿見の前に立って、心を整えるルーティーンを行う。
「僕は『私』であって僕ではない。ましてや人前で僕であってはならない。」
小さな声で何度も何度も何度も唱える。
そうしてから10分程が経って、ルーティーンを終える。もう、大丈夫だろう。
教室の扉の前で立ちすくむ。
…内心、不安でしかない。本当は千夏があのことに気づいてクラスのみんなにはもう広がってるんじゃないだろうか。きっと僕が僕であることがバレれば、居場所は無くなってしまう。そう思うだけでたったの1歩が踏み出せない…。
「何してんの、朔夜?てか、今日は千夏一緒じゃないんだな。」
「おはよう、
「へぇ、そうなんだ。もしかしてなんかあった?」
ニヤニヤして僕に問いかけてくる。
クラスでは1番の情報屋である彼が普通に接している、ということはつまりそういう事なんだろう。
「いいや、特に何もないよ〜。何となく、私が早く学校に来たかったの。」
「なぁんだ、つまんねぇの。」
そのまま彼の後ろについて、ようやく足を踏み入れる。それから数人と挨拶を交わしたあと自らの席へと向かい、物思いにふける。
目下の考え事は考えたくないと思いつつも先輩達の停部、及び咲良先輩の黒い噂の件だった。暴力沙汰の何かを起こしたとか、ある人のいじめを扇動していたとか、…援交をしていたとか。それが原因で停部になったと騒がれていたりもする。
けど、僕はそんなこと微塵も思っていない。彼女を知っている人ならみんながみんなそう言うだろう。誰にでも人当たりが良くて後輩の僕達とだって仲良くしてくれる。勉強は…あまり出来ないっぽいけど、そんな所が可愛い。だけど陸上部ではキャプテンをしていたし、彼女の走る姿は本当にかっこいい。
平たく言うと「私」は咲良先輩に憧れていて。じゃあ僕はと言うと……。
だから、って訳じゃないけど、彼女がそんなことをするわけが無い。大方嫉妬か何かがそういう黒い噂を生んだんだろう。だからこそ僕はそんな噂に踊らされた先生が、許せない。
そこでプツリ、と集中力が切れる。
周りの音が一瞬にして脳内へ流れ込んでくる。
…ん?予鈴?教室に誰もいない?一限目は移動教室か、急がないと…。
「ん?千夏がいない?」
いつもだったら僕に声をかけてくれるはずなのに。
「面と向かって話すのはまだ気まずい、とか…?」
意味もなく思考を巡らせながら、とりあえず音楽室へと向かった。
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