第98話


 主任のことだから、『無上の喜び……!』とか言ってひれ伏すのかな、と頭の隅で思った。でも、実際の主任はそんな想像とはかけ離れていて、こちらに手を差し伸べるような格好のまま、薄く口を開いて固まってしまった。



「主任……?」



 呼吸も忘れているじゃないかと思うくらい動かないので、先ほどと同じ要領で顔の前で手を振ってみる。すると主任は金縛りが解けたみたいにハッした。


 そして、これには私の方が石化してしまいそうになったのだけど、いつもはこのオフィスで威厳を放つ主任の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていった。



「……え」



 動揺の声が漏れると同時、主任は私の前から姿を消した。厳密に言うなら私の前にはいるのだけど、限りなく床に近い場所へ一瞬にして移動していた。



「申し訳ありません……詩絵子様がそのようにおっしゃるのは初めてだったので……いい大人の男が顔を赤らめるなど、なんたる醜態……」



 もごもごと口の中で喋るみたいに主任は呟く。そうか、今のはときめいちゃったってことなのか。それで顔が赤くなって恥ずかしい、と……。


 あれ……なんだろう、この気持ち……。主任がちょっとかわいい、なんて思えてしまって……。胸の奥がむず痒いような、ぞくぞくするような……。なにか、衝動が突き上げてくるような……。なんだろう? この感情の正体は……


 ―――もっと……は・ず・か・し・め・た・い……。



「……」



 ……ハッ!!

 危ない危ない、私ってばなに考えてんのよ! 今ならピンヒールでこの後頭部をぐりぐりできそうとか、『いい大人が嘘の一言で顔を真っ赤にしちゃって、キモ』って罵声を浴びせたいとか……なんてこと考えてるのよっ! 本格的に主任に毒されはじめてる証拠! 私はピンヒールで人の頭を踏んづけたりしないんだから!



「主任! 顔をあげてくださいよ! 忘れかけてましたけど、仕事の途中ですよね!?」


「たしかにそうではありますが、まさか詩絵子が先のような返答をくださるとは、夢の彼方にも思いつきませんで……いささか動悸が収まらないもので……それにこの余韻にもうしばらく浸っていたいというのもありますし……このようにニヤついた恥ずかしい顔をお見せするわけにもいきませんし……」



 ……土下座の方がよっぽど恥ずかしいと思うんだけどなあ~。もう見慣れたポーズではあるけど。主任と交際してからこっち、たぶん顔より後頭部の方が見てるし。


 いやいや、そんなことではなくて、主任が仕事してくれないと残業しなきゃいけなくなるんだった! それによく分からないけど、今は土下座されてると蹴っちゃいそうだし!



「主任、頼みますから顔をあげてくださいよ」


「いえ……いくら詩絵子様の頼みといえど、こればかりは……」



 主任は頑なな意思を表明する。



「……そうですか。それじゃあ私は帰りますね」



 言い残し、私はドアに向かって歩いた。それから一度ドアを開け閉めし、帰ったように見せかけて、慎重に物音を立てないように主任のデスクの裏に隠れた。前から気になっていたことがある。今までに主任が一晩中、床に額を当てて土下座をしているようなことが何度かあったけど……本当か……?


 普通の人間に、そんなことが可能なのか? そもそもトイレはどうするの。我慢するのも徹夜土下座の醍醐味なの? もはや釈迦の苦行レベルじゃない?


 そう、今日解決したい疑問は、『主任って本当に、徹夜で土下座してるの?』というものだ。実際に一晩中見守ったことがあるわけじゃないんだもん。この際、徹底的に暴いてやろう!


 決意を胸に、私は息を殺して床に張り付く主任を見守った。


 5分経過。

 今のとこ主任に動きはない。それはもう羽化を前に木枝にしがみつくサナギのごとし静止っぷり。まあ、まだ5分。一晩かけて土下座する主任にとっては、刹那のようなものだろう。


 15分経過。

 やはり動きなし。見ているのも飽きた。なぜか履いている下駄の鼻緒が切れた。


 25分経過。

 そろそろ小腹が空いてきた。美雪さんから頂いたプレゼントの袋に、手土産としてケーキやお菓子、アロマオイルが入っていることに気づく。


 主任が床の一部と化して40分経過した頃―――真夜中のオフィスに、チャルメラの電子音がこだました。慌てて音を消す。しかしこの静寂の中鳴ってしまったんだから、さすがに主任にも聞こえただろう。ということは、私がここにいるのもバレたか……。


 くっそ~~~まだ主任の徹夜土下座の解明途中だってのに~~。誰だよこんな時にメールよこすのは!



『主任

 件名:期待を裏切らず、駄犬です』




「……」


 くっあーーーー!! 件名を小粋にアレンジしてきやがった!! たしかに主任かな~?とは思ったけど!



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る