「目覚めたんだよ、私の中のドエスが」

第97話


 白い着物、黒く短い袴に下駄、頭には一つ目小僧の被り物。そういういで立ちで、私はオフィスのドアの前に立った。この扉の向こうでは、主任がいつものように仕事に勤しんでいることだろう。


 これから何が起こるかも知らずに―――……。


 ゆっくりと扉を開ける。半開きの隙間に顔を覗かせ、暗がりの中からじっと主任へ顔を向ける。あえて『わあ!』とか『ばあ!』とか大声で驚かさずに、気が付くと闇の中からひっそり自分を見つめる妖怪がいる、という恐ろしい状態を演出した。


 主任の席付近はぼんやり照明がついてるみたいだけど……なにぶん暗いもので、主任の驚いた顔が見えない。ていうか主任……いる……?


 息づかい一つ聞こえないんだけど……もしかして恐怖のあまり声も出ないとか?なるほど、驚きすぎて腰抜かしてるのかな?よし。さらにおどかしてやろう。


 私はゆっくりと一歩を踏み出した。壁をつたいながらおそるおそる歩く。その背後で、バタン、と音がした。思わず体が跳ねる。見てみると今入ってきたドアが閉まっただけだった。


 くそっ。なんだドアか……。なにかいるわけじゃないよね……?ていうか主任……?いるよね……?悲鳴あげていいんだよ?主任みたいな大きな男の人だって、ビビることくらいあるよ。全然恥ずかしいことじゃないよ。


 私の目的はこの辺りで変わっていた。当初の主任を驚かす目的はすっかり引っ込んでいき、とにかく主任を見つけるために手探りで歩いた。


 下駄を引きずり、ようやく主任のデスクに近づいてきた。どうやらパソコンはついているようだが、灯りはデスク照明だけでずいぶん視界が悪い。このパソコンの向こうに、きっと主任がいるはずだ。私は縋るようにそちらへ歩を進めた。


 でも……さすがに私の存在に気づいてるはずだよね……?居るならなんで声かけてこないの?まさかトイレに行ってるとか、どっかに仮眠取りに行ってるとか……そういうことじゃないよね?


「……」


 自分は今、真夜中のオフィスに一人かもしれない。そう思うと恐怖に身震いした。足が震える。そのせいでうまく歩けず、私はそのままデスクの横へ倒れ込んだ。そうすると、狭まった視界に何かが映り込んだ。


 人の足だ!ってことは主任いるんだ!驚いて声が出なかっただけなんだ!


 それが分かると恐怖は一目散に奥底へ引っ込んでいき、私は勢いよく立ち上がって一つ目小僧の被り物を脱ぎ捨てた。



「驚きのあまり声も出なかったようですね!清水詩絵子!ただいま参上!」



 指をさして言い放つ。やっと明瞭になった視界に、まず一番にぽかんと口を開いてこちらを見る主任の姿が映った。キーボードに手を置いて、顔だけこちらに向けた格好で固まっている。なんだか、そういう銅像みたい。



「主任、やっぱりいるんじゃないですか!声一つ出さないから、実は誰もいないんじゃないかと思いましたよ!びっくりしてただけなんですね!この被り物かぶってると、全然周りが見えな」


「……かわいい」


「……」



 固まったまま、主任は小さな声をこぼした。

 え?なに急にこの銅像ったら。



「主任?どうしたんですか?」


「……うれしい、です……」


「……あの……?」



 主任の顔を覗き込む。固められた前髪がひと束額におり、そのぽかんとした顔には、心なしか疲れが滲んでいるように見えた。私は主任の顔の前で手を振った。



「主任? 主任ほんとうに大丈夫ですか?」



 主任はやっぱり呆けてこちらを見ていた。しかし、いくぶん流暢さを取り戻して言った。



「来てくださって、嬉しいです。心底、驚きました」



 え? 私のホラー演出よりも、ここに現れたことに一番驚いてんの?



「実は、仕事がかなり切羽詰っていまして……」、主任は不健康に光るパソコンへ視線を向けて切り出した。「明日の会議までに終えられるかどうかという瀬戸際なのですが……」


「なのですが……?」


「やる気が起きません」


「……」


 うそーーーん!! あの主任が!? 仕事の鬼・向井主任がッ!? なに私みたいなこと言ってるんですかッ!


 あ……そういえば美里が言ってたっけ。主任は今、連日徹夜でプロジェクトにあたってる、って……。そろそろ集中力とか体力とか、いくら主任がドエムといえど、色々と限界なんだろうな……。


 主任の疲れを思うと、心がしんみりした。そしてなんだか、主任の存在が身近に感じられるようだった。自分と変わらない普通の人が、自分では到底やりきれないことをしている。そのことをしみじみ実感した。



「しかし、詩絵子様が来てくださったので……まさか、来てくださるとは思っていなかったので、かわいい一つ目小僧を見て、一気に疲れが飛びました」


「……そういうものですか?」



 本当にそんな単純なものなのか? それくらいで連日徹夜激務の疲れが消えるもん?


 訝しげに見上げると、主任は私の頭に手を乗せて、『そうですよ』と返事をする代わりみたいに微笑んだ。少し重くて、大きな手だった。優しさのような温もりを持つ手だった。主任はしばらく私の顔を見ながら頭を撫でた。


 そうされていると、安心するのに胸が弾むような、緊張するのにやめて欲しくないような、矛盾だらけの不思議な気持ちにさせられる。



「髪、伸びましたね」



 指の間に髪を通しながら、主任は静かに言った。



「そうですか?」と私は緊張しているのがバレないように、なるべく普段通りの声で答える。



「詩絵子様、僕が好きですか?」



 …………………………………………………………………………。



「はっ!?」



 な、なんて言ったの今!?



「す、す……どうしたんですか急に……!」



 思わずのけぞり、私が少し離れると、髪が主任の指の間を通り抜けていく。主任はその手で、丁寧に私を指し示すように手のひらを上に向けた。



「僕が今そう感じたので。詩絵子様も同じ気持ちなら、と思いまして」



 言葉の途中から、顔の血液が熱いお湯に変わったみたいに感じた。

 くぅ~~~……! なんでこの人はこう恥ずかしげもなくこういうことが言えるのかな!? しかも涼しい顔しやがって……私ばっかり恥ずかしくてやられっぱなしじゃんか。


 それでちょっと悔しくなって、やり返してやろうと思って、恥ずかしいのをめいいっぱい堪えながら、私はちらりと主任を見上げた。



「私も……会えて嬉しいですけど……」






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