第73話
「主任! 大丈夫です、か……!?」
二階から人を抱えて飛び降りるという芸当をしてみせた主任は、今度は私を『たかいたかい』してくるくると回りだした。
「主任、なにやって……」
「可愛いですねー。なんて軽いんでしょうねえ」
「……えっと」
なんで急に可愛がるの? なんか変なスイッチがあるのかな? 主任にしか分からないものが。抱っこするとじゃれちゃうみたいな。
よく分からないが、主任はとても楽しそうだ。
「あの、主任」
これ、昼間の公園で父と子がやってるなら微笑ましい光景だけど、大の大人がこんな夜中にやってたらただのバカだよ……。
けれども主任は、ほくほくした優しげな笑顔で私を見上げている。
「詩絵子様、楽しいですか?」
「いえまったく」
「ずっとこうしていたいですね」
「下ろしてください」
そうしている間に、美雪さんが階段を下りてくるのが見えた。それはそうだ。こんなことしてる場合じゃないもん。
「主任! 主任! 美雪さん来ましたよ!」
「え? 次はお馬さんがいいですか?」
「言ってません!」
「僕はガタガタのアスファルトでも平気ですよー」
「だろうね!」
私は慌てていたが、こちらに駆け寄ってくる彼女の手に、もう包丁は握られていなかった。
「帝人さん」
彼女の呼び声でやっと正気に戻ったらしく、主任は私をその場に下ろして美雪さんを振り返った。美雪さんは信じられないという神妙な面持ちをしている。
「帝人さん……これは、なんで」
彼女は状況を示すように視線を動かし、最後に主任を見上げた。
そっかあ。美雪さんからすれば、今まで見てた主任とあまりに人格が変わってるからビックリしてるんだろうな。その気持ち、痛いほど分かるよ。
「悪いが美雪、こっちが素の俺なんだ」
困惑する彼女に、主任は冷静に告げる。
そっか~。まだほんのちょっぴりだけ、会社での主任が素の方だと希望を捨てきれずにいたけど、やっぱりこっちが本物なのかぁ……。
「そんな……え、私……それじゃあ、今までの帝人さんは……」
歯切れの悪い言葉は、しんとした響きを持って空気へ溶けていく。私は思いついた。とてもいいことだ。
美雪さんほど主任を愛している人だ。ずいぶん長い月日を、主任一途へ捧げている。きっとドエムと知ったくらいじゃ、諦めがつかないだろう。
今は混乱しているけど、主任をまるごと受け止めてあげられるのは、この地球上に美雪さんしかいないと思う。
全部まるごと押し付けちゃおう! 美雪さんが頑張ってドエスになれば、万事うまく収まるじゃん!
言葉の続かない気まずい二人を見ながら、私は思案した。美雪さんの愛情を維持するには、ちょっとした荒療治だ。
ここで私がバシンと一発ビンタでもかまして、『本当に好きなら全部受け止めてあげな!』みたいなことを叫んでやる。
そうすると美雪さんは、目が覚めたようになって、『はい……!』と涙を流しながら、これからも主任を愛し続けることを固く誓うのだった。
―――よし。これで行こう。
「美雪……」
何事か言いかけた主任の前へ出て、私は頭を垂らす美雪さんの胸ぐらをつかんだ。彼女はぼんやりと顔を上げる。私は思い切り腕を振り上げて、彼女の頬を打った。
「素の主任が理想と違っていたくらいで何ですか! まるごと受け止めてやるのが本当の愛でしょう!?」
美雪さんは顔を横に向けたまま、しばし静止する。それからゆっくり頬に指先を触れて、こちらを見た。
よしよし。ここで感涙ながらの『はい……!』がくる。あとは『末永く、お幸せに』とかなんとか言いながら、スっと背を向けてここを去れば完璧。
私へ繋がれた美雪さんの目が潤み―――……
「詩絵子さん……」
ポッと顔が赤らんだ。
……え?
「こんなことされたら、興奮しちゃうじゃないですか……」
「…………」
うそーーーん。
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