第72話



 聞き慣れた声。弾かれたように声の方へ顔が向く。



「しゅに……! ……え」



 隣のベランダには主任がいた。私は後ろを振り返ってみる。そちらにもベランダがある。そこは今井のおばちゃんの部屋だ。



「詩絵子様! はやくこちらへ!」


「……」



 ……貴様、今どこから出てきた……?



「主任……もしかしてなんですが……天文学的な数値でしかありえないことだと思うですけど……もしかして……私の勘違いだと本当に申し訳ないんですけど……隣の部屋……借りてるんですか……?」



 さすがにない……よね?


 あ、でも、ここのアパート、壁薄いから、それで私のでかい独り言が聞こえてたとか……。それで私の生活にあんなに詳しかったとか……。


 うわ……辻褄があっちゃう。


 半信半疑にうろたえる私とは対照的に、まるでこの質問を覚悟していたように、主任はなぜかネクタイをきっちり襟元で締め直して真面目な顔をした。



「バレてしまっては仕方ありません」


「……」



 どうしよ……すんごいまっすぐな目してる……。これ、怒っていいとこだよね?



「詩絵子様が入社された翌日より、この卑しい駄犬はさっそく履歴書の住所を確認し、不動産屋へ馳せ参じました。そうしてこのオアシスを手に入れたのです」



 主任はきっぱりとした口調で言い切る。



 ―――さすがだ。

 意味が分からないけれど、なぜだかそう思った。


 さすがは主任。第一級危険人物。理想の女王様を追い求めるあまり、金にものを言わせて偽装結婚までしちゃう世紀の変態。



 あっぱれだ。

 まさか隣の部屋に主任がいるなんて、夢の片隅にも思いつかなかったよ。開いた口が塞がらないって、こういうことを言うんだ。



「それより詩絵子様、そこから飛び降りれますか?」



 高さを確認するように、主任はベランダの下を見た。



「え?」



 ここから? 私も背伸びして顔を出す。5、6メートル……くらいかな。



「飛び降りるって……ムリですよ。もしもの時はベランダにって……そっちの部屋に移動するってことじゃなかったんですか?」


「実はですね、そのメールを送ったあとで気づいたのですが、ここの部屋」



 主任はぴっちりカーテンで蓋をされた自分の部屋を示した。



「詩絵子様に入られては困るんですよ」


「困る? っていうのは……」


「まあ……見せられないものがあると言いますか、むしろ見せられないものしかないと言いますか」



 ほお~?

 それは犯罪の匂いがすると言いますか? むしろ犯罪の匂いしかしないといいますか?


 なんて、こんなこと話してる場合じゃない。

 カーテンの隙間から部屋の中を見てみる。美雪さんが包丁を手に台所から出てきたところだった。



「主任! やばいです! もう美雪さんが来ます! なんかなんか! 包丁とか持ってますけど! あれ絶対に切れ味抜群ですよ! さっき研いでましたもん!」


「あー、彼女、運動はダメですけど、包丁を研ぐのは得意なんですよね」


「そんな特技いりません!」


「あと、自分の髪を編み込んだセーターとかも上手ですよ。髪まで模様としてデザインしますからね、彼女は」


「それもいりません!」



 私はちらちら後ろを振り返って美雪さんの動きを確認した。彼女は私を探しているようで、トイレのほうへ向かう。



「詩絵子様、こちらに飛び移れますか? 僕が受け止めます」



 主任は心持ち腕を広げる仕草をする。



「え、そっちに……」



 主任と、部屋にいる美雪さんを見比べてみる。

 ……どうしよ。どっちも怖い。



「で、でも、そっちに行ってどうするんですか?」




 ベランダとベランダの間は、おおよそ3メートル。主任に手助けしてもらえれば、この3メートルの空白を渡れるだろう。下へ飛び降りるよりは、はるかに安全だ。


 でも、部屋に入れないんじゃどうしようもない。この疑問に、主任はこともなげに答えた。



「僕が詩絵子様を抱えて飛びます」


「……」



 そこまでして部屋を見られたくないのか? 優先順位おかしいでしょ。こっから私を抱えて飛ぶなんて、下手すれば足の骨折るくらいじゃ済まないんでないの?


 ふいに、視界の端にある光景が滑り込んだ。カーテンの隙間から、こちらを見つめて光る美雪さんの目だった。


 私は叫び声を上げることも出来ず、手すりに背中をつけていた。



「詩絵子様、はやく!」



 叫び声。私はほとんど無意識にその声に従い、手すりに足をかけて登った。


 手すりの上でしゃがみこみ、そこを掴んでバランスを取る。下から吹いてくる風が、服と肌の隙間を滑っていく。



「しゅ、主任……た、立てない」



 こんなとこで立ち上がったら、バランス崩して落ちちゃうよ!

 窓が開く。美雪さんが中から姿を現す。彼女から視線を外せないまま、私は小さく呟いた。



「主任……たすけて」



 主任の耳はもしかすると、どれだけ小さくても私の声を聞き取ってくれるのかもしれない。彼は手すりに乗り上げると一足でこちらへやってきて、とん……一歩だけ、手すりを足場にしながら、まるで駆け抜けるみたいに、美雪さんの前から私をさらった。


 そしてそのまま落ちていく。ぐん、と下腹部の奥が一気に縮みあがるような、落下の感覚があった。主任の腕の中で、私は固く目を閉じた。


 ガサガサと木の揺れる音。そっと目を開いたとき、私は主任に抱えられて地面にいた。あとからあとから、私たちの頭上に落ち葉が降ってくる。


 どうやら落ちる際、主任はそばの木の枝を掴んで、一度衝撃を和らげてから降りたようだった。状況を把握しながら、私は顔を上げた。


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