第71話



 のんきに言ったあとで気づいた。言ってた……言ってたよ……。本社にこないかと誘われてるって……。



『できれば、今のままでいられないかなー……なんて』


『詩絵子様のお望みでしたら、なんなりと』



 その原因、私じゃん……。



「それより美雪さん! 早くシャワー浴びちゃってください! こんなところで立ちっぱじゃ風邪ひきますよ!」



 慌てて美雪さんを脱衣所へ追いやり、ドアを閉める。そこで深く一息をついてから、今度はダッシュで着替えの準備をした。


 美雪さんってお嬢様らしいけど、スウェットでもいいのかな? シルクのパジャマしか受け付けないような人だったら困るけど。そうしてクローゼットを漁っている間、テーブルの上で何度かスマホが鳴っていた。



 私は服を抱えて、「はいはいはいはい」とやかましく呼びつけるスマホを引っつかんだ。予想通り主任からの連絡だった。何通もメールがきている。



「なになに。もう、こっちは忙しいのに」



 内容はこうだった。



『何度もメールを送りつけて申し訳ありません。彼女、詩絵子様がたんなる会社の部下ではないと、感づいているようです。気をつけてください』



 気をつけてください。


 最後の一文が、いい知れぬ不安感を腹の中に運び込む。



「気をつけて、って……」



 美雪さんが私を監禁でもするって言うの? もしくは殺……。



「すみませーん」


 

 嫌な考えが頭に浮かんだところ、遮るように風呂場から声が上がった。私はハッと顔を上げる。



「は、はーい」


「シャワーのお湯が出ないようなんですけど」


「あ、すぐ行きます!」



 せっつかれて立ち上がり、風呂場へ行く。



「故障ですかね?」



 ドアを開けるわけにもいかないので、扉の前で問いかける。半透明の扉の向こうで、美雪さんのシルエットが影絵のように動いた。


 瞬間、おもむろに扉が開き、まるで飛び出す絵本のごとく、全裸の美雪さんがシャワーヘッドを振りかぶって飛び出してきた。


 私は声を出す間もなく、洗面台に背をつけて彼女を見ていた。


 がつん、と鈍い音をたて、シャワーヘッドは洗面台の縁に当たり、そこから温かなお湯が噴水のごとく上がる。



「お、お、お湯……出た、みたい……ですね」


「ほんとだ」



 ぽつんと一言吐き、彼女はすぐに風呂場へ戻っていく。すぐにシャワーを浴びる音が聞こえてきたが、私はしばし放心し、それからヘタリとその場に座り込んだ。


 な、な、な、なんなの今の!? すごい躍動感だったんだけど!! 殺しにかかってる!?


 私は洗面台を掴んであわあわ立ち上がり、壁づたいに部屋に戻った。またメールが着ていた。



『もしもの時は、すぐにベランダから脱出してください』



 ベランダ!? なぜベランダ!? ベランダなんて行っちゃったら、逃げ場ないじゃん! 飛べってか!? ここ二階だよ!



 ガチャ。背後で、ドアが開く。私はスマホを背中に隠しながら振り返った。




「はやかったですね……」



 なんだか息が苦しく思えた。大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせる。美雪さんは私と同じか弱い女性だ。武器らしいものなんてなにも持ってないみたいだし、殺人なんてするはずないよ。



「メール中でした?」



 視線が、私の腹あたりに下がる。彼女には、背後で握り締めているスマホが、透けて見えているみたいだった。



「え? ま、まあ」


「メールといえば、私、何度も帝人さんにメールを送ったんですよね。でも、一度も返事はきませんでした」



 彼女は虚ろな目をしていた。どこを見ているのか分からない、焦点の定まらない目だ。



「返事がないと、寂しいものです。あなた、清水さん?」


「……清水詩絵子と、言います」


「返事は、してあげてくださいね。誰からのメールかは、分かりませんが……いつどの瞬間が、最後になるか、分かりませんから……」



 彼女の目の焦点が、私に定まる。今まさに銃口を向けられているような、威圧的で無機質な目だった。



「さ、さっきの……」、私はなんとか声を出す。「さっき、シャワーで私を殴ろうと、しませんでしたか?」



 なんでこんなことを聞いているのだろう。言いながら思った。こんなことを聞いて、どうするつもりなんだろう、と。美雪さんはしとやかに笑った。



「気づかれてたんですね。他に硬いものが見当たらなかったので、あれを使いました。あそこなら私が裸だから、少し油断してたでしょう?」



 彼女の話しの途中から、私は全身を強ばらせて固まっていた。すぐに美雪さんは言った。



「台所、借りますね」



 低い声。言葉が持つ意味以上に、深みを持った台詞だった。美雪さんは台所へ消えていく。台所……。真っ先に思い浮かぶのは包丁……。


 やばいやばいやばい。なに? すぐに台所を借りるのはドエムの習性なの!? ていうか柊さんの時といい、主任と付き合ってから危険なことばっかりな気がするんだけど!



 いやいや、そんなことよりも逃げないと……。


 『もしも時は、ベランダへ。』


 ベランダになにがあるかは分からないけど、私は今にも腰が抜けてしまいそうなまま急いで窓へ向かった。おそるおそる、後ろを振り返りながら。


 半開きのドア。奥からはシャリン……シャリン……という、独特な、何かが擦れるような音がゆっくり響いていた。私はぞっとした。これ、包丁といでる音だ……。


 なんでなんで!? うちに研ぎ石ないはずなんだけど! 持参したの!?


 私は縋るように窓を開けた。それと隣の部屋の窓が開いたのは、たぶん同時だった。



「詩絵子様!」


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