第70話



「大丈夫ですか!?」



 美雪さんは地面に手をついて咳き込んだ。少し水を飲んだようだが、大事には至らなかったようだ。



「帝人さん……」



 息を整えてから、彼女は潤んだ目で主任を見上げた。主任は立ち上がってシャツを絞っている。



「ありがとうございます。なぜ、助けてくれたんですか……?」



 シャツからは連なって雫が落ちていく。そうしながら、主任は何気なく答えた。



「放っておけないからですよ」



 私はちらちらと交互に二人を見る。

 もしかしてこれは……ちょっといい雰囲気なのではッ!?


 私にとってバッチコイな流れ! そうだよそうだよ、これがベストだよ。主任は美雪さんの前で、一生擬態したまま生きていくべきなんだよ!


 そして変態欲求を抑えたまま、被害者を出さずに死んでいくべきなんだよ!



「帝人さん……やっぱり離婚はしたくありません……! あなたが好きなんです……!」



 たまらないように、美雪さんは切なく叫ぶ。


 きたッ! めっちゃいい台詞! 私は期待に光る目で主任を見た。こんなこと言われちゃあ、男として答えはひとつでしょ!


 主任はシャツの皺を伸ばしながら、こちらも何気ない様子で答えた。



「俺は嫌いです」


「…………」


「…………」



 主任……。そりゃないよ……。

 顔を背けずにはいられない、いたたまれない空気が流れた。もう美雪さんの顔みれないよ……。


 しかし私の憂鬱なんかどこ吹く風、美雪さんはポッと頬を赤らめた。



「帝人さん……そんなこと言われると、ときめいちゃうじゃないですか」


「……」



 ふ~ん? もういいんじゃん? 案外お似合いな二人じゃん ?そのまま変態同士、生涯を共にしてくれれば、世の中平和なんじゃない?


 ではアデュー!


 私は静かに踵を返し、その場を後にしようとした。その時に主任が言った。



「美雪。本当のことを話しておく。俺には従うべき愛する人がいる。だからこれ以上、婚姻関係は続けられない」



 背筋がひやりとして、足がとまる。なにその表現。めっちゃ怖い。愛する人ならまだしも、従うべきっておかしいじゃない。


 そーっと振り返ってみる。美雪さんは絶望した人のように頭を垂れて、その下から「へえ……」と小さく呟いた。



「へえ……そう……へえー……あれ……これはあんまり、嬉しくないなあ……」



 次第に声が低くなる。……これ、私が主任の彼女ってバレたら、殺されるんじゃない?なんとしてもバレないようにしないと……!!



「そ、そうだ!」、私はいきなり振り返って手を叩いた。「濡れたままじゃ寒いし、とりあえず家に帰りましょうよ! 美雪さん、家は近いですか?」


「少し、遠いです」



 彼女は俯いたまま答える。



「それじゃあタクシー拾いましょうか!」


「ありがとうございます。でも、車だと1時間ほどかかります」


「あー……」



 1時間濡れたままでいると、さすがに風邪ひいちゃいそうだな。どうしよ……。実は、こっからうちって結構近いんだよなあ。



「よかったら、うち来ます?」


「そうしていただけると助かります」



 断ってほしいなーと思いながら控えめにたずねたけど、彼女は頷いてしまった。そうなると「じゃあ行きましょうか」という以外に選択はなく、美雪さんを誘導しながら、私は主任を振り返った。




「じゃあ主任、そういうことなんで。帰りますね。今は美雪さんも主任と離れて落ち着いた方がいいと思いますし」



 主任は顔をしかめたが、「悪いな」と言った。あー、まだ一応、擬態中なのか。直後、ポケットの中でスマホが震えた。おそらく主任からの長い謝罪メールだろう。


 どうせこの人、私の家なら会話を聞けるから構わないんだろうな。きっとうちのすぐ近くに待機するんだろうし。



「美雪さん、行きましょうか」



 主任と別れ、私はすぐに彼女を家まで案内した。



「狭いところですが……」


「すみません。おじゃまします」



 彼女はお辞儀をして玄関へ入った。



「すぐにタオル持ってきますね! ザザーッとシャワー浴びちゃってください。着替えも用意しておくんで」



 彼女は品のいい生地のカーディガンを着ていた。それもびしょ濡れで肌に張り付いてしまっている。



「寒そうッ。寒いですよね?」



 美雪さんを見上げる。びしょ濡れのその姿は、見ているだけで身震いしそうだった。早くシャワーを浴びた方がいいと思ったけど、彼女は玄関に立ったままだ。



「少し、聞いてもいいですか」


「え? はい」


「帝人さんは、会社ではどんな感じですか?」



 明るくも暗くもない、単調な声だった。会社でどんな感じ? 主任が? 私はオフィスでの主任を思い浮かべた。




「それはそれは、みんなに尊敬された存在ですよ。上司までが、ひともく置きつつ、頼りにしているというか。あんまり美雪さんの前と変わらないと思いますけど」



 まあ、裏は全然違う人格があるんだけど。心の中で付け加えたが、、美雪さんは「そうですか」と嬉しそうに顔を綻ばせた。しかしすぐにその表情は曇る。



「帝人さんはお仕事も出来るようですけど、なぜか昇進や本社移動の話を断り続けているようです」


「そうなんですか?」


「彼を留まらせる原因が、今の場所にあるのではないかと思うのです」


「えーなんでしょう」



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