第69話



 私と美里はお酒を飲んでくつろぎながら、思い出話に花を咲かせた。こんな奴がいたとか、こんなことがあったとか、そういう他愛もない話だ。


 けれどそうしているうちにだんだん気持ちが高揚してきて、こういうのもいいなーと思った。友達と二人で一緒に暮らすのって、すごく楽しそう。



「あーお酒切れちゃった」



 話の途中、美里はワインボトルをひっくり返して言った。私はすばやく立ち上がる。



「居候のわたくしめが買ってまいります!」


「ほんとー? 気をつけてね」



 いいな、いいな、こういうの。美里と二人で暮らしていくのもいいかも。たぶん拒否されるだろうけど。何日か泊り込んで美里の機嫌がいいときに頼み込めば、なし崩しでいけないかなー。


 そんな妄想に、私は浮かれていた。


 だから変態ドエムのことや、その奥さんの問題なんて、すっかり記憶の奥へ追いやって、気分良く外を歩いた。コンビニでお酒を買って(もちろん年齢確認をされるので、身分証を見せたよ!)ほろ酔い気分で橋を渡ったとき。


 欄干から身を乗り出す一人の女性が、ふと視界に入った。 ……思わず立ち止まる。


 どうしよ……美雪さんじゃん……。


 長く綺麗な黒髪が、夜風に吹かれて揺れている。彼女の纏う空気は、どんよりと暗雲を渦巻かせていた。


 これ、これから飛び降りる人じゃん……。主任、離婚の話をしたって言ってたもんな……。どうしよ……面倒だし放っとこっかなー……。


 本当には飛び降りないでしょ。そう。景色を見ているだけ。美雪さんは今、ちょっとだけ人生に疲れて、綺麗な景色を見てたそがれている。きっとそうなんだ。


 そう言い聞かせて頷いたとき、まるでその考えを否定するみたいに、彼女は靴を脱いできちんと並べた。


 ……うそ。ない、ないって。ちょっと暑かったんだな? それとも足の裏がかゆくなったのかな?


 ……水虫。そう。美雪さんはみかけによらず水虫もちで、定期的に薬を塗らないといけないんだよ。だから靴を脱いだんだ。


 彼女は手すりに片足を上げた。



「ストーーーーーーップ!!!」、思わず大声で叫ぶ。「なにやってるんですか! なにやってるんですか!」



 私は慌てて駆け寄る。美雪さんはゆっくりと振り返り、私の顔をぼんやり眺めた。



「ああ……帝人さんの家に訪ねてこられた……」


「わあわあわあ……落ないでくださいね。はい、はい、手……手ぇ、掴んでください」



 下手に刺激をしてもいけないと思い、私はちょっと離れたところで、あわあわしながら手を差し出す。



「すみません、恥ずかしいところを見せてしまいました。でも、もういいんですよ」


「よ、よくないですよ! 自殺なんてやめてくださいよ!」


「実はあなたが訪ねてこられた日、帝人さんに離婚を切り出されたんです。あなたには妻ですって名乗ったのに……そのすぐあとでした。『向井帝人の妻です』って名乗るの、はじめてだったんですよ。嬉しかったなー……」



 彼女は寂しく笑う。そこに冷たい風が吹いて、さらさらと髪を揺らした。私はおどおどして美雪さんの横顔を見つめた。その顔はとても儚く綺麗だった。


 なんだか私がきゅうーっとしちゃうよー……。どうしよう……こういう時、なんて言えばいいんだろう。



「そこから飛び降りても死にませんよ」



 ひょこ、と。

 唐突に生えたように現れた主任が、こともなげに告げる。



「しゅ、しゅに……!」



 突然の登場に、私はびっくりして飛び上がる。



「み、帝人、さ……」



 美雪さんも私と同じように驚いたのだろう。そして飛び上がったのだろう。けれど彼女のいる不安定な位置でそれをしてしまうと、受け止めてくれる地面がない。


 美雪さんは放り出されたように宙に浮き、その黒髪に包まれて驚きの目でこちらを見ていた。



「美雪さ―――……!」



 そのまま、彼女は橋の向こうへと真っ逆さまに落ちていく。なんとか伸ばした手は届かず、冷えた空気を掴む。


 私は欄干から身を乗り出して下を見た。ドボン、とけたたましい水しぶきを上げて、彼女が川へ落ち込んだところだった。



「主任! 美雪さんが……!」



 慌てる私とは対照的に、主任はのんびり下を眺めている。



「あーあ。彼女、泳げないのに」


「なに呑気に言ってるんですか! はやく助けないと!」


「そうしたいのは山々ですが、この辺りに手頃な棒があるかどうか」


「棒以外に方法ありますよね!?」



 なんで棒にこだわってんの! ていうかのんびりしすぎでしょ!


 私は川原へ駆けた。美雪さんはバシャバシャ暴れて水の表面で浮いたり沈んだりしている。



「美雪さん!」



 そうして私が川に足をつける直前、美雪さんのそばでドボンと大きなしぶきが上がった。


 主任が橋の上から飛び込んだようだった。彼は水面から顔を出すと、美雪さんを支えて自分の胸の寄りかからせた。



「力を抜いて。全身を預けて。そう。人は浮くようにできてますから」



 そんなことを言いながら、ライフセーバーさながらの動きで、着実に陸へと運んでくる。美雪さんは大人しく従い、だらりと全身の力を抜いて主任に寄りかかっていた。


 私は陸に上がった二人へ駆け寄った。


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